SF素人が空想科学小説に耽溺するブログ。
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僕の読書傾向の一つに亡くなった人のものを読む、ということがある。
遠藤周作もそうだったし、景山民夫に関してもそうだった。新聞やなにかの隅で見かけると手にとって見る。伊藤計劃にしてもそうで、書店で手に取った書籍の著者略歴で「2009年没」の文字を見てショックを受けた。もちろん以前からその作品の質の高さはいろんなところで目にしていたわけで、文庫化の流れもあり手に取ってみた。
著者は1974年生まれ、僕は1983年生まれだから、11、年が離れていることになる。けれど、その持っている感覚は非常に近いものがある、と一方的に過ぎないかもしれないがそう感じる。たしかに同時代を生きている。古いSFしか読まない僕には有り余る新鮮さが伝わってくる。実はゼロ年代のSFと呼ばれるものを読むのは初めてかもしれない。
9・11以降の世界を描く―――この現実へのコミットの仕方が、社会問題への痛烈なる思いが、この作品の持つなんといったらいいか・・・・・・「神性」という言葉で言い表しておこうか、あるいは「生真面目さ」といっておこうか、それを生み出している。
音楽でいえばフォークロック的な感覚。青年の生の声。そして、それはオトナになりきれない現代の若者感覚の延長として、もっといえば「僕」という人間の延長として語り手であるクラヴィス・シェパードが存在している。ピーターパン・シンドロームに襲われているモラトリアム人間としての。
それだからこそ痛切である。クラヴィス・シェパードは僕である。僕であるからこそ、その青臭さ、無力さ、無気力さ、すべての欠陥に苛立たしさを覚える。カフカやらなんやらいわゆる上位文化に関する無駄に知識をひけらかそうとするところなど、作者の意図したところであろうか、青臭くてイヤになる。そして、なんというか「悪意」が炸裂するラスト。これも感覚としてわかってしまうところに、同時代性と成長しきれない自分を見出してしまうのだ。少なくとも僕はそうだった。
たしかにこの時代にしか書けない歴史に刻まれるSF。ただし、それは読むものを傷つけ、感化させ、そして、もう一度無力な自分を浮き上がらせる。だけど、それがやっぱり小説ってやつで、文学ってやつだと思う。作者の死によってなおそれは加速される。残された僕たちは・・・・・・?共に考え、表現してくれる人はもうすでにこの世にない。
精神的な話ばかりになってしまったが、SF的設定や物語構造については、もうすでにどこかで体験した世界だと思う。それゆえにこそ、我々の、同時代の人間が抱えるテーマを掘り下げたということが大きいのではないか。この時代に読めてよかった。そう思える作品だった。
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