オタクたちの消費行動の変化が社会に与える大きな影響とは?気鋭の批評家が鋭く論じる画期的な現代日本文化論。
非常に面白い!
オタク文化にはポストモダンの状況がよく現われている。その観点から、オタクの動物化したポストモダンについて、述べている。ポストモダンとは、1960年代、70年代以降の文化的世界を広く捉えるために使われる用語。
オタク文化は萌え要素をデータベース化している、という鋭い指摘に、うーむと肯き、シュミラークルという用語(オリジナルとコピーの中間形態)に肯き・・・・・・もう肯きっぱなしです。
作品のほとんどすべては引用である。引用なき作品など存在しない、というような論を著作権関係の本で見かけたことがありますが、オタクの世界ではその「引用」は顕著に現われる。この本の中で使われる綾波レイの擬似キャラクターを見ればよくわかる。
萌える要素を区分け、整理し、データベース化したところから、引き出してきてキャラクターを作る。ギャルゲーから始まり、僕の興味あるところでは漫画の『ラブひな』『ハヤテのごとく』のキャラクター作りなど、萌え要素を自覚的に引用し、主人公の周囲に配置させるところなど、顕著にそれが現われていると思います。
「大きな物語の凋落」ということが指摘されていますが、学生運動が終了してからのシラケ世代から、僕たち、それ以降の世代にいたるまで、国家や大きなイデオロギーを喪失し、島宇宙的な狭い範囲内での行動様式しかもてなくなった人々は、自らの欲望を消費することが大きな生きる意味となってきている、というのは僕の実感としてあります。そうした世界では文学も、個人の欲望を消費する小さな物語が大きな意味を持ってきてしまう。最近のキャラクター小説の傾向は、そういったところから来ているのでしょうか。
日本的スノビズムの章で、「オタク的感性の柱」として、岡田斗司夫の『オタク学入門』から、「騙されているのを承知で感動したりもする」ことが挙げられていて、なるほど、自分が普段アニメや漫画を見て感じているのはこれなんだな、と自己分析することができていいです。このスノビズムの考え方は、自分の考え方におそろしく適合しているなあ、と感動すらしました。
続編の『ゲーム的リアリズムの誕生』もさっそく読みたいと思います。
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