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SF素人が空想科学小説に耽溺するブログ。

モラトリアム

   

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ジェネレーション・ギャップ 浦沢直樹『20世紀少年』

日本が高度成長期のまっただ中の1970年代。夢と希望に満ちあふれた時代。少年たちが空想した世界。地球滅亡をもくろむ悪の組織、東京を破壊し尽くす巨大ロボット。世界は混沌し、滅亡に向かっていく。それに立ち向かい地球を救う、勧善懲悪の正義のヒーローとその仲間たち。こんな下らないストーリーを“よげんの書”と、少年たちは名付けた。大人になるにつれ、そんな空想の記憶は薄れていく。
 しかし、1997年幼なじみの死をきっかけに、その記憶が次第に呼び覚まされていく。そして、世界各地の異変が昔幼い頃空想した、“よげんの書”通りに起こっていることに気づく。出来事に必ず絡んでくる謎の男“ともだち”との出会いによって、全ての歯車は回り出す。悪の組織“ともだち”に、ヒーロー“ケンヂ”は果たして立ち向かえるのか。(wikipedeaより)


 2002年、大学一年生だった僕は当時所属していた部活動の試合で数日沖縄にいた。その時、ホテルでの一時の暇を潰すためにブック・オフで『20世紀少年』の1~3巻を購入した。
 高校生のときに同じ浦沢直樹の『MONSTOR』を読んでいた。サスペンスの展開に震えた。1~18巻まで怒涛のように読み進めたあのときの感触が忘れられなかった。
 3巻まで読んだときにそのことを思い出した。僕は一冊ずつ出版される物語を追いかけるよりも、先々が気になってたまらない、ページを繰る手を止めることができないその楽しさをもう一度体験することにした。本屋で『20世紀少年』の新刊を見ても無視をした。スピリッツを読む時は『20世紀少年』のページをとばした。友達がその話をしようとしたら「先を言うな」と口止めした。
 いつの間にか『20世紀少年』は『21世紀少年』と名前を変え、全巻が出揃った。5年の間、このときを待ちわびていた。倉庫のダンボールの奥から1~3巻を取り出し、五年の間に被さった誇りを払って読み出した。ページを繰る手が止らない。一日目三冊。二日目三冊。三日目四冊。四日目七冊。五日目の今日七冊。というハイペースで読み終わり、ただ今感無量。

 サスペンスの骨法を浦沢直樹は体得している。物語は作り物めいているのだが、絵柄が読者にリアリティを与え続ける。そのとき僕が何を連想したかというと、大友克洋の『AKIRA』だ(浦沢直樹と大友克洋の関係に関しては夏目房之介が指摘していたように思う)。SF的な虚構を描写の力によって、リアルなものにしてしまう。その力技、そして物語展開として、暴走する力を止められずに破滅に至るシーン、破滅後の世界で復讐を誓いつつ仲間たちが生きているシーン、ケンヂの帰還と金田の帰還、ロックなどのサブカルチャーの多用(あのドラッグは明らかに『AKIRA』を意識しているだろう)、宗教集団の支配、ヒーローへのコンプレックスによる巨大な力の行使、超能力などである。その類似性に気がついた時に感じたのは時代の移ろいという儚さと虚無感である。

 最近、万博などへの懐古的なもの、「あの頃の未来」と題されそうなテーマをもったものをときどき見かける。岡田斗司夫の著書であったり、クレヨンしんちゃんであったり。僕は'84年生まれだからまったく世代が違うのだけれど、その世代の人々が追っかけていたものが見えるような気がする。
 ロックンロールはLove&Peaceだった。万博は素晴らしい未来を約束していた。希望に満ちた未来論というものがあった。そのような「熱狂」の渦の中に、日本の「青春時代」の中に、上昇気流の中にいた人々が八十年代を駆け抜け、不況の中に突入し、なにをどう思ったのか。そして、「夢の21世紀」に突入しようとしたときにどう感じたのか。ノストラダムスは来なかったし、21世紀は20世紀の延長にあった。ロックンロールは死んだといわれ、学生運動の熱狂もなくなり、メッセージソングは死んだと歌われる。20世紀の幻影は消え去った。

 その「20世紀の幻影」による復讐がこの『20世紀少年』だという風に感じた。万博の再演、悪の組織(もちろん「ともだち」はオウム真理教を一部モデルにしているだろう。オウムはSF的兵器を開発しようとしていた)、マンガ・アニメ的世界観による世界統治・・・・・・。結果的にグロテスクになってしまったのはしようがないけれども、「ともだち」の不満はケンヂたちの世代にとっての不満でもあったろう。そして、「ともだち」が悪の帝国を引き受け、ケンヂが正義の味方となった。しかし、その正義の味方がどうも冴えない。どうにも後味の悪さが残るのである。

 『AKIRA』の世界は混迷の世界だった。しかし、そこにも確固たるものは見えていたのである。金田は間違いなしにヒーローとして描かれた。超能力は進化の過程であり、そこには前に進んでいることが、破壊の中から踏み出していくことが描かれた。それは遠い未来だったからであろう。『AKIRA』の2019年は執筆当初の1982年からすると37年先。その未来は現在と断絶した時間、異界だったからこそ『鉄人28号』にインスパイアされた世界が描けるのである。
 しかし、『20世紀少年』は違う。ケンヂのヒーローとしての存在は揺れ続けている。結局、音楽では世界は変えられないことを自覚しているのだ。そこに僕としてはどうにも違和感を感じてしまうのである。結局、物事を変えたのは音楽でなくて民衆の立ち上がる力だということを言おうとしたのか、そうでないのか、僕は迷ってしまうのである。そして、それは悪の方にも正義の方にも同じ幻想や理想がのしかかっていることのせいじゃないかと僕は感じた。正も悪も、この「21世紀」という実在の現実の延長として描かれているために、幻影から引き戻されてしまうのである。そして、超能力は人間を新たな段階へと導こうとはしない。『20世紀少年』はその意味で、すべての幻想を現実に引き戻そうとする動きとして作品全体が働いているのである(作品序盤では幻想を取り戻すことに力点が置かれているんじゃないかと思っていたのだけれど・・・・・・)。

 しかし、それゆえにこそラストのシーンは引き立つといっていい。『20th Century Boy』の流れたことによって救われた少年が一人いる。そのことが読者を、というか僕を救ってはくれるのだが、やはり一人の人間は救ったが世界を変えることはできなかった(っていうかそいつを救ったことでとっても悪い方向に世界が歪んだと意地悪く突っ込むこともできるけど)。頭で納得しながらも、そこに僕は違和感を感じてしまうのだ。
 そして、おそらくそれは僕が作者の想定するど真ん中の読者でないからである。これは作者と同年代の時代を通り抜けたものが共感すべき物語なのだろう。不況の暗い世相を潜り抜けてきた僕たちの世代と、右肩上がりの好況の中育ってきた世代とでは、自ずとそのメンタリティは違ってくるはずだから。恣意的な例になるような気もするが、僕たちの世代の代表的なヒーローは碇シンジだった。彼は戦うことに常に疑問を持ち続けている。悪と正の二分という幻想も、戦うためのお題目もすでに信じていない奴がヒーローだったのだ。というわけで、僕はそこに引き戻されたとしてもそこまで感じるものはないのである。

 と、偉そうなことをさんざん並べ連ねてきたものの、これは僕個人の解釈かもしれず、世代に広げるのは無理があるかもしれません。同世代の人いかがでしょう?違う世代の人もいかがでしょう?御意見お待ちしております。
 ちなみに、全巻出るまで待っているマンガがあと二作品。奥浩哉『GANTZ』と望月峯太郎『万祝』。早く全巻でないかなあ。
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