県立わかめ高校に転校してきた藤山起目粒(フーミン)は花中島マサルと親しくなる。しかし、マサルは言動も行動も意味不明の変態であった。フーミンはマチャヒコ、キャシャリンなどと共にむりやり「セクシーコマンドー部」という格闘技の部活動に入部させられる。そして、彼らの変態ライフが始まった・・・・・・。1995~1997「週刊少年ジャンプ」連載。
このマンガを初めて読んだとき、僕は戸惑いを隠せませんでした。まったく新しいものを見た!という感じだったのです。当時中学生だった僕はどう受容してよいものか、わかりませんでした。しかし、一度その楽しみがわかってしまうと、ハマってしまうのもものすごくタバコや麻薬のような反復性のある危険なマンガです。
以前、島本和彦のマンガとうすた京介のマンガの類似性を指摘しました。しかし、島本マンガには不在の「ツッコミ」がうすたマンガでは重要な役割を担っている。それが、この両者を大きく隔てている違いだと思います。
ツッコミ・・・・・・。その
悲哀が僕は大変好きなのです。「あずまんが大王」のヨミ。「無敵看板娘」の太田。「ハレグゥ」のハレ。・・・・・・etc。彼らは例外なくボケ役にひどい目に合わされる。それでも
突っ込まずにはいられないその習性・・・・・・。
ツッコミとボケという割り振りは主に漫才において使われます。ツッコミはボケの引き立て役であり、ボケという主体があって始めて成り立つ役割です。
笑いというのは「意外性」ではないかということは以前、『神の左手悪魔の右手』の記事でも書きましたが、それは我々の
日常の現実とずれた非現実の世界なのです(当たり前のことを言ってもつまらないですからね)。
それに対して、ツッコミはボケと
我々受容者をつなぐチャンネルです。ツッコミは一般常識(
現実)の観点から、相手の現実とのズレを指摘してみせ、「おかしみのポイント」を強調することによって、笑いを増幅させる働きを持っています。
ツッコミの悲哀というのはすでに、
ボケという主体に対する引き立て役というところに表れています。漫才のボケの代表格である北野武や松本人志などはカリスマ化され、いまやヒーローと化した感さえあります。なぜそのような現象が起こるのでしょうか?
さて、ようやく「すごいよ!!マサルさん」に入っていきます。
「すごいよ!!マサルさん」ではそのツッコミにスポットライトが当たるお話があります。ある日のセクシーコマンドー部。部室でみんなの特技について話し合っている。フーミンは自分が「
ツッコミ」であるということが周囲に認識されていることに気がつきます。そんな変なものが自分の特技であるはずはない。よしんばあったとしても、それは自分がヒゲ部という場所にいるからである・・・・・・。そう考えたフーミンはモエモエの所属している演劇部を見学に行きます。しかし、そこで自分の体にツッコミが染み込んでしまっていることに気がつき悩みます。思い悩みつつ男子便所に入ると、なぜかマサルが
風呂上がりのごとく、タオル一枚で牛乳を飲んでいるという光景に遭遇します。そこで、たまりにたまったツッコミエネルギーが爆発し、合計五コマも使った渾身のツッコミを披露。「
今までに見たことのないようなまぶしい笑顔」をみせるのです。
我々には社会のルールが抑圧として、常に身の回りにあります。現実世界において、人は法律やモラルという規範を守らなくてはなりません。特に日本においては「恥」という概念があり、個人の特異な行動は異端視されやすい傾向にあります。ツッコミはそういった
規範(常識)をきちんと体得し、その中で生きていこうとしている人間です。対して、ボケはその規範がわからずにズレていってしまう人間で、そこに通常の人間から見ると「おかしさ」が発生するのです。
ツッコミであるフーミンは常識の範囲内で生活していましたが、セクシーコマンドー部という常識の通用しない世界にいたくもないのに入れられてしまいます。規範の範囲外の人間が周囲を支配する異世界の中で、彼は必死に自分の正常さを保とうとしています。しかし、彼は「ツッコミ」という認識でその異世界の中の一員として組み込まれてしまっていた。そこで、彼は驚愕し、常識の通用する世界「演劇部」を見学に出かけるのです。
彼の対社会意識が表現されている絶妙なシーンがあります。フーミンは会社の面接の場面を想定し、面接官に「資格とか特技とかありますか?」と訊かれ、「
ツッコミです!」と勢いよく答えるという場面を思い浮かべ、「言えるかー!」とガビーンとなってしまいます。社会帰属の一番のモデルとして取り上げられる会社。その会社に入る際の入社試験。その面接という場。言い換えれば、それは社会参画という場において、ふさわしい(常識的な)返答をしなければならない「場」というものに彼が合せようとしているということだと思います。
我々は
欲望に自由に生きたいという願望を持っています。しかし、そこには必ず社会のルールやモラルが立ちはだかっています。ところが、ボケはそのルールやモラルに縛られることがありません。中世の道化は王の悪口を笑いのネタにしても処罰されませんでした。このお話ではマサルがそれにあたります。
ボケは自分の思うところに自由な生き物なのです。
フーミンは常識的世界から抜け出し、変態集団の中に取り込まれてしまいましたが、常識から逃れることができません。同時に彼は
変態の世界で一人正常な自分に疎外感を感じているところもあるのかもしれません。
変態が変態でありえる世界というのは、自分の欲望表現が格段に自由な世界なのです。それはモエモエの「(ヒゲ部にいると)楽しいし
無理しなくていいから!」という発言にも表れています。抑圧の強いフーミンは欲求を素直に表現できる世界に惹かれてもいるのです。そして、彼は最後の場面で「ツッコミ」という自分のヒゲ部としてのアイデンティティーの確立と、「ツッコミ」という「普通でない」(これは一般概念でなくフーミンの認識)欲求、言い換えれば倒錯的な欲求を満足させたことで、彼は自分の葛藤をいくらか解消できたのではないでしょうか。それが最後の笑顔に繋がったのではないかと思います。
そして、作品としての「すごいよ!!マサルさん」はそんなフーミンというチャンネルを通じて、読者が「
堕ちていく楽しみ」を体験する物語だと思います。ボケという自由なヒーローに我々は憧れますが、一足飛びにそこに到達するわけにはいかない。そこには「ツッコミ」という媒介役、ボケに対する伯楽の目を持った人物が必要なのです。我々現実に属する人間は誰しも心の中に、倒錯的な欲望や憧れをどこかしら持っているものです。常識的人間フーミンが変態世界に染まっていくことによって、常識世界にいた我々もヒゲ部という異空間に誘い込まれ、その欲望を昇華できる・・・・・・。もちろん爆笑できるギャグがあってこそだとは思いますが、形式的にもよくできたマンガだと思います。そして、その形式は現在の『ピューと吹く!ジャガー』にもつながっていると思います。
ツッコミという気質は常識と周囲のずれを是正
せずにはいられないという哀しい習性です。そんな生き方は辛いだろうけれど、すべてのツッコミに幸あれ!
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