『白い人』は、醜悪な主人公とパリサイ的な神学生との対立を、第二次大戦中のドイツ占領下リヨンでのナチ拷問の場に追いつめ、人間実存の根源に神を求める意志の必然性を見いだそうとした芥川賞受賞作。『黄色い人』は、友人の許婚者をなんらの良心の呵責も感じずに犯す日本青年と、神父を官憲に売った破戒の白人僧を描いて、汎神論的風土における神の意味を追求する初期作品。
テーマ作家の作品を読む時はなんだか必死になって作者の言いたいことをさがすのですが、遠藤周作の場合は、探さなくともバーンと面前に出てくるので、そういう意味では楽です。
日本人とキリスト教。僕は親友がキリスト教の一派だったので、宗教論争は時々やったことはあります。そのとき、僕が感じたのは人と人がそれぞれ抱いている世界観の断絶でした。だから、僕がこの作品を読むときも、カトリック作家である遠藤周作との間には深い川が横たわっていると思うのです。
しかし、読書というものは作者が書いたものを自分なりに翻訳し、咀嚼・消化するものだと思うので、僕なりに興味深く読みました。アミニズム信仰的な日本人と一神教のキリスト教はそもそもからして合わないのではないか。欧米では真実はたった一つ。それを追い求める科学的・論理的な世界です。対して日本は曖昧で多重的な世界を生きています。なんたって神仏習合、モノマネの国ですからねえ。
「罪」という問題にしても、日本人は罪なんぞいうものを持っていないのではないか、ということでしょうか。「つかれ」で罪悪感もなく友人の許婚を抱いてしまう「黄色い人」。遠藤はこの人間に批判的なのでしょう。たぶん、誤読でしょうが、僕はその千葉やデュランなどの「罪を犯す」人びとに感情移入してしょうがないのです。それは僕がモラトリアム人間だからでしょうが、明確な世界、論理一辺倒な世界に適応できずに、欲望に身を任せることのほうが楽なのです。
「神」など信じないどうしようもなく日本的な「黄色い人」の僕なのですが、テーマを見つめる真剣さは遠藤ほど強くないにしろいくらか持っています。小学生の頃、青い空の下、親友と神の存在について語り合ったときのことを思い出します。彼は「神はいる」といい、僕は「神はいない」と言い切った。あのときのどうしようもない隔絶の悲しみは今も僕の胸にわだかまりを残しているから。
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