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武士とは何ぞや 西森博之『道士郎でござる』

img153.jpg 「今日から俺は!」の西森博之のギャグマンガ。04~06年「週刊少年サンデー」に連載。
 アメリカ・ネバダ州でインディアンと共に生活していた道士郎が日本に帰ってきた。彼は何を勘違いしたのか、武士になりきっていた。ある日、普通の高校生小坂健介はコンビニに寄った帰りに、道士郎と知り合いになり、ひょんなことから彼の「殿」になってしまうのだった・・・・・・。

 「侍」「武士」――この響きが僕は大好きです。あなたはどのようにお感じになるでしょうか。

 しかし、侍や武士とは本来職業のことを示す言葉であって、現在のような形で使われることはありませんでした。昨年でしたでしょうか、サッカー日本代表のキャッチフレーズが「サムライブルー」だったことがありました。その意味するところは、「雄雄しく、気高く、国(ファン)に忠実」といったところでしょうか。武士が日本に存在しない現代において、それは完全なイメージとして私たちの心に存在しているのです。また、そのイメージがどこから醸成されたのかを考えると、時代劇や時代小説、時代漫画などのフィクションによって培われたいわば武士の「理想像」的部分の強調されたものだと思われます。いわゆる「武士道」は時代の趨勢によって変化し、この「道士郎でござる」という作品は現代という時代の人間の理想像を踏まえた「武士道」になっていると思われます。
 道士郎がインディアンと共に生活していた、という設定がありますが、一方で「武士道」と共に、今はほとんど絶えてしまったインディアンという、これまたイメージの醸成によって作られたインディアン観が道士郎の口から語られるのは、面白いところです。

 僕の感じた「武士観」のその一は、「武士は超人である」ということです。「超人」道士郎を読んでいて感じたことは、道士郎と健介の関係は「ドラえもん」におけるドラえもんとのび太の関係である、ということです。ドラえもんは23世紀の道具で、現代技術を遥かに凌駕することで、のび太の欲望を成就することに手を貸します。道士郎はその身体能力と一般人どころかヤクザすらも寄せ付けない武力で、健介に権力を与えます。いわば道士郎は世間の常識を凌駕した魔法使いや妖精ら、この世のものではない類のものなのです。
 そして、この超人ぶりを作ったのがインディアンと生活していた、という事実です。「自然と一体化している人びとは超人的な能力がある」というイメージを我々は持っています。先にも書きましたが、その「勝手なイメージ」と現実のずれがこのギャグマンガのギャグの中心になっています。異文化接触のギャグですね。

 「武士観」その二は管理職のお侍さん、つまり小坂健介の「お殿様」ぶりです。明治に入り、四民平等になった世の中、特に昭和・平成は大衆が中心の時代となりました。健介は我々小市民の代表です。中庸を身上とし、それでもちょっとした良心を併せ持つ普通の少年です。この物語は主に健介の目線で語られており、形式的にはもし我々小市民が、「侍」(武力)を手にしたらどうなるか?というお話ではないでしょうか。
 後に普段は口にするのも恥ずかしい「世直し」や「悪漢退治」に乗り出す健介は、我々と同じように世間のことはあまり気にかけず、自分の狭い現実範囲内でセーフティな生活を送ろうとしていました。しかし、道士郎という異世界のものとの接触によって、彼もその世界に引きずり込まれていくのです。道士郎がもたらしたもの――それは「暴力」「武力」の世界とのつながりでした。
 先日、西森先生は「お茶をにごす。」という作品の中で、列車内でタバコを吸うヤンキーに注意する小市民的おじさんを描きました。おじさんは相手の暴力行為にびびってしまいます。そこで、登場するのが主人公の片割れ。彼は更に上を行く暴力でヤンキーを黙らせてしまうのです。このように、西森先生の作品では小市民的良心と「暴力」というテーマが登場します。そして、その小市民的(には限らないのですが)良心を主人公たち「ヒーロー」が正義の鉄拳(武力)で代行していく、というお話になっています。「今日から俺は!」はその代表的な例ですが、あれは「ヤンキー」という裏の社会でのお話でした。ところが、「道士郎でござる」の場合、視点が健介のものなので、表社会では通常「武力」は是認されないし、そこに所属しているためには、武力を使う「建前」が必要になってくるのです。ここで、健介の葛藤と知力を尽くした「お殿様」としての道士郎以下早乙女愛ら「武力」の統制、統御が発生してきます。結果的に、健介は皆と共に「学校をやめる」という表社会を捨てることによって、彼の男気を見せますが、西森ファンには聞きなれた「開久高校」というヤンキーしかいない「裏社会」に移行することによって、暴力はある程度是認され、健介自身も闘争の中に入ってしまうことになるのです。面白いのは、彼が伝説の存在、池内によるイメージの世界で醸成された、道士郎以上の存在になってしまうことです。健介の出世ぶりに、小市民である僕は自分を重ね、感動したものです(そういう成長物語という点では少年漫画の王道をいったのかもしれませんね)。

 「道士郎でござる」は全八巻という少々短い作品となってしまいましたが、必ずしもこの作品がつまらなかったわけではないと思います。以下、僕個人の観点からそれを述べたいと思います。
 大人気作品「今日から俺は!」はヤンキーという裏社会での二人のヒーローの物語、正義のヤンキー対悪のヤンキーの大げさにいえばヤンキー社会内での勧善懲悪、善悪二言論の世界でした。しかし、「道士郎でござる」はそこに健介という小市民の葛藤を描いたことで、ワンクッション置いた物語となり、表社会と裏社会との相克を描きながら、「武力」をどう是認していくか・・・・・・というテーマの深化が見られたと思います。しかし、どちらがわかりやすいかといわれれば、当然前者なわけで、少年誌という性格上、「大きなお友達」がフムフムとうなずきながら読んでいてもしょうがないのです。少なくともまだ学校という閉鎖された現実の中で生きている小中学生には健介のような社会所属意識はなく、この物語は実感がなかったのではないでしょうか。

 僕の中では「道士郎でござる」はテーマの深化によって、「今日から俺は!」と甲乙つけがたい作品となっています。ちなみに一番お気に入りなのはやはり道士郎が押入にひそんでいるシーンです。「道士郎ドラえもん説」に拍車がかかりました。
 西森先生の新作「お茶をにごす。」が今後、どのような展開を見せるのか、今から楽しみです。
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