えー、七夕から
二ヶ月と少し遅れですが。今日は岩明均『七夕の国』。1996-1999『週刊ビッグスピリッツ』連載。
大学で「新技能開拓研究会」を主催する南丸洋二(ナン丸)にはささいな超能力があった。ナン丸を掲示板で呼び出した丸神教授が失踪したところから事件は転がり始める。丸神教授は自らのルーツである丸神の里へ行くといったまま、行方不明になったのだが、その直前、同じ里に先祖を持つナン丸に連絡をとろうとしていたのだった。丸神ゼミの連中とともに、丸神の里に着いたナン丸は里の人々の不審な言動に疑問を覚える。この人たちはなにか隠している。はたして、ナン丸の持つ「超能力」との関係は?そして、丸神教授はどこへいったのか。様々な謎をはらみつつ、一行は「七夕の祭」を待つことになるが・・・・・・。
「『寄生獣』の」という形容が必ず付いてまわる岩明均の放つ傑作SF。(今回は作品の内容に触れています。読んでいることを前提にしたレビューです)
岩明均の作品についていわれるのは「
テーマ性とエンタテイメント性のバランスのよさ」です。『寄生獣』では「
自然の中での人間とは」というテーマがあったと思います。『七夕の国』では終始一貫したテーマというのは『寄生獣』ほど明確になっていないので、戸惑いながら読んでいましたが、最終的にはナン丸の言葉がすべてを語っていたのだと最後に思いました。頼之の誘いに手を伸ばす幸子をナン丸が押し止める。あのクライマックスがこの作品の一番重要な場面です。
ナン丸は大学四年生。これから社会に出て行くために就職活動をしなければならない身ですが、自分は「超能力」を持つ身で、その能力をなにかに生かせないかと思っている。対して、丸神の里の者はその力を外部にひた隠しにしています。
我々にもなんらかの「能力」があります。そして、その能力で社会に奉仕する。それが働くということの意味である。これが現代社会の理想です。
ナン丸は自分の超能力をなにか(社会)の役に立てたいと考えている。しかし、現実は往々にしてそううまくはいかないもの。ナン丸は結局最後には掃除のアルバイトの身分にしかすぎません。そして、ナン丸が「特別な能力を持つもの」の象徴であった「おでき」は最終的には消えてしまうわけです。
対して就職も決まってしまっている(4巻80頁)はずの幸子はそれにも関わらず、「窓の外」の世界に連れて行こうとする頼之の誘いに応えようとします。幸子は現存の社会を捨て、別の世界へ「逃避」しようとしていたのだろうと思います。
世界は目で見えてる大きさの百倍も千倍も広いんだぜ!
そう、個人の目に見えているのは世界の一部分にすぎない。自らの狭量な視野が見えるものも見えないようにしている。その実感としてナン丸は
「そうじ」することをあげています。
幸子が兄に傷つけられてトラウマを負ったように、丸神の里の者たちは異星人カササギによって忠誠心を刷り込まれてしまった。同様にナン丸でさえ、自分が超能力を保持しており自分が特別な人間でないかと思い込んでいた。
両者ともに
なにか(言ってしまえば自分)に束縛されている。その束縛からいかに逃れるのか。丸神の里の者(というより幸子)は自分が「里の一部」でなく、自由な個人であることをいかに見出すか。逆にナン丸は自らが大勢の人間の中のただの一人であるか。それを認識することで最終的に二人は「この社会」にとどまったのではないでしょうか。この物語は
ナン丸が世界の中心に自分を置くことから、「大勢の中の一人」であることを自覚する(つまり、精神的に大人になること)成長物語だったように思います。それから、最後の場面ではナン丸が幸子にとっての「窓の外」になったということが暗示されているような気がします。
あまりうまくまとまっているとは自分でも思えませんが、まあ、とりあえずこのように感じました。『寄生獣』と比べるとやはり見劣りするのはしょうがありませんが、岩明均の魅力がよく出た作品であると思います。
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