初めて「ラピュタ」を観たのは14歳のときだった。
家族がカラオケに出かけた後、両親の部屋に置いてあるテレビを独占して、一人で観たのだった。しーんとした家の中、僕と映画だけの対話の時間だった。
エンドロールの「君をのせて」が流れる間、映画に対して真摯な姿勢を見せないといけないと思ったのか、僕は畏まって正座をしていた。そんな気持ちになるのは小説以外では初めてで、宮崎駿という人の作品に僕は胸を撃ち抜かれてしまったのだ。
あれから16年。30才になった僕は今まで何度も見返したはずの作品をまた見て、涙している。14才で観たときと同じように。作品の内容や魅力については今さら語るまでもない。活劇に手に汗を握り、気持ちのいい人たちや父親や好きな人とのつながりに涙し、悪役の狂気に背筋を寒くし(そして、どこか共鳴し)、文明という巨大なものに恐れおののく。小さな物語から、大きな物語まで、その美しさに心を囚われる。
見た後に思わず興奮に囚われたまま、昔、コレクションしたパンフレットや「ロマンアルバム」「ジ・アート・オブ」をパラパラめくる。野田昌弘さんのインタビュー記事やフラップターの構想段階のイラストにレイ・ブラッドベリのサインが入っていたなどの情報にSFファンとして反応してしまう。この作品も僕のSF熱に火をつけたものの一つなのだ。僕という人間を構成する材料の一つにこの作品もなってしまっているのだ。
ふと、ハイロウズの「十四才」という曲を思い出す。ボーカルの甲本ヒロトが十四才のときにロックンロールで受けた衝撃を「かもめのジョナサン」のジョナサンに語り掛ける形で回想するという歌詞だ。
それは僕の心臓ではなく それは僕の心に刺さった「ラピュタ」を観たときの僕の気持ちは、まさにこれだ。そして、この歌はこうくくられる。
あの日の僕のレコードプレーヤーは 少しだけいばって こう言ったんだ いつでもどんな時でもスイッチを入れろよ そん時は必ずお前 十四才にしてやるぜ今日、僕は映画の時間の中だけ14才に戻って、そして、30才の肉体にまた帰ってきた。あの頃、夢見ていた自分とは程遠い。でも、誰になんと言われようと好きなものを大切にして、自分の感性を信じていこうと幼いながらに決めた人生の指針だけは、牙城を守れているんではないかと14才の自分に言い訳したい。だって、俺、まだ「ラピュタ」で涙できるんだぜ。
僕にとっては単なる映画の一本ではなく、「宝物」といえる作品なのです。
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