終末世界を圧倒的な筆致で描ききったバラードを代表する“濃縮小説”の傑作「終着の浜辺」。いつとも知れぬ処刑の日を待ちながらチェスに興じる死刑囚と執行人の静かなる戦い、遺跡に残された美しい少女の幻影装置を拾った青年、襲いくる海の幻影におののく男の話などを通して、絢爛かつ退廃に満ちた内的宇宙をあますところなく描破した鬼才のSF全9編。(『時間の墓標』改題)
◎
「ゲームの終わり」
いつ訪れるともわからない死刑執行。与えられた別荘で死刑囚と死刑執行人はお互いの腹をさぐりあいながらチェスの駒を動かす・・・・・・。
不条理小説・・・・・・なのか?背景の正体をばらさないというニュー・ウェーブの手法を繰り出しながら機械化した裁判制度の恐怖を描いているのでしょう。死刑囚コンスタンチンと執行人マレクの静かな睨み合いが作品に緊張感を生み出していてよいです。いずれの作品もたしかに登場人物の心理がよく描かれていて読み応えがある。
○
「識閾下の人間像」
医師フランクリンにハサウェイは訴える。人の識閾下に訴える禁じられた広告が街に多々建設されつつあるのだ。フランクリンは相手にしないが・・・・・・。
消費社会への風刺。ものを買い換えていかなければ経済はまわらない。新商品、新商品、新商品の嵐。ダンピングされた車は数ヶ月しかもたず、テレビでは広告の嵐。実際にはサブリミナル効果はそんなに強く働かないそうですが、月に数万も本に費やす僕も実は識閾下でなにかに操られているのかもしれない・・・・・・?
○
「ゴダード氏最後の世界」
デパートに勤めているゴダード氏の唯一の楽しみ。それは自宅の金庫に収めてあるジオラマを見つめることだった。しかし、そのジオラマはただの町のミニチュアでなく・・・・・・。
昔、パソコンが初めて家にやってきたときに「シムシティ」というゲームにかなりはまっていました。町を建設して遊ぶゲームなのですが、そこらへんを人が歩き回っていて、たしかカーソルを合わせるとそいつが何者で何の職業をしていて・・・・・・みたいなものがわかるというシステムだったと思います。なんだかカミサマになったような気がしたものですが、ゴダード氏もそういう楽しみがあったんでしょう。この話も種明かしというものがありません。
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「時間の墓標」
再生を願ってテープに死んだ人物のデータが記録されて収納されている時間の墓(タイム・トゥーム)。その墓荒らしのグループの一員シェプレイは老人と共に古い時代の墓を発見し、掘り起こす。そこにあったのは・・・・・・。
バラードという人は夢見がちな人なのでしょうね。美しい女性の墓を発見したシェプレイはその墓だけを守ろうとしますが、しょせんそれは現実ではなく、偽の墓だと突きつけられる。この残酷さに共感するのはむしろ現実的な人よりも、夢見がちな人ですものね。砂丘であるとか遠い昔に滅びた王朝であるとか、いまここにはないどこかに思いをはせる作品が多く、僕もどっぷり世界観にはまってしまいます。ただ、ストーリー的、アイディア的にはどうってことない作品も多いとは思いますが。
○
「甦る海」
メースンの耳に、目に、鼻孔に、その海は存在を確かに伝えてくれる。内陸のこの地に夜になると現れる幻の海・・・・・・。夜ごとに彼だけの海を散策していると、丘の上に女性の姿が・・・・・・。
珍しくオチがついた作品。逆にこれだけの幻想譚だとがっかりしてしまったのは僕だけでしょうか。しかし、町を水没させ、波が洗う光景は実際に目で見たい気がします。しかし、健気な奥さんがいるのに(いるからこそ?)この男、バカなことをしましたねえ。
○
「ヴィーナスの狩人」
ワード博士がハッブル記念天文学研究所の一員としてやってきたとき、新しい知人のうち最も親しくなるべき人物が、チャールズ・カンディンスキーであろうとは想像もしてみなかった。カンディンスキーは金星人とコンタクトを果たし、地球人の宇宙開発を思いとどまらせようとしている男だった。
人が超神秘的なものにはまってしまう心理というものはいかなるものか?というお話だったと思います。最後に例によってうやむやな展開になってしまうのですが、カンディンスキーとうい人物は三島由紀夫の『美しい星』の登場人物によく似てるなあと思いました。両方の作者ともユングの論を利用したのでしょうか。
◎
「マイナス1」
グリーン・ヒル精神病院の患者が一名行方不明となった。殺人狂であるヒントンという男はどこにいるのだろうか?医師たちは捜し続けるが・・・・・・?
うーん、皮肉なラストが非常によかった。やっぱり、オチがつくと嬉しい。途中の人間の存在について院長が論じるところが非常に面白かったです。まるで安部公房の作品を読むような感覚です。
○
「ある日の午後、突然に」
エリオットは驚愕した。自らの頭に見知らぬはずの記憶が次々を浮かんでいき、自らの記憶はどんどん剥落していってしまうのだ。彼の記憶に浮かんでくるのはインド人の医師の殺人の・・・・・・。
幻想ホラー?科学者っぽいのがでてくるところがSFっぽいですが。インド人であるという登場人物の役割はやはり輪廻の思想があるからなのでしょうか。自分が自分でなくなっていく感覚。そして、人としてしちゃいけない考えに逸脱していく感覚。いいホラーです。
☆
「終着の浜辺」
かつての核兵器の実験場で一人の男が白昼夢に苛まれながらさまよっている。幾何学的に配列されたブロックの群れ、死体のように倒れているマネキンたち・・・・・・。「未来の墳墓」たるこの島で男はいったい何を思う・・・・・・。
正直いってよくわからん・・・・・・。よくわからんがすごいではないですか。ダリやマグリットの絵を見たときの、キューブリックや押井守の映画を見たときのような、驚愕。「なんだかよくわからんが・・・・・・わからないけど、すごい」。心をつかむ世界観、頭でのストーリーの理解などあとでよい。これはきっと読めば読むほど、噛めば噛むほど味の出る小説だ。きっと繰り返し繰り返し読んで、ようやく意味のわかる小説だ。まずは圧倒的なヴィジョンを楽しめばそれでよい。一見平和な島の上で、繰り返されてきた核実験。無数に倒れた「巨石」たち、横たわるマネキン、放置された戦闘機・・・・・・。社会から隔絶されたこの地で、狂気に蝕まれた男の見る幻影。死んだ妻と息子が絶えず彼の周辺をついてまわる。転がっていた日本人の死体との対話。核時代の人類の抱える不安・・・・・・。短い断章を羅列した構成が奇妙にその不安をさらに煽る。バラードの作家性を発揮されたすばらしい作品だと思います。
総評:バラードの作品を読むのは、けっこう時間がかかります。こっちも覚悟して付き合わねばなりません。というわけで、三日ほどかけて読んだわけですが、やはりこちらが賭けただけの時間をきちんと返してくださいます。そんなにニューウェーブは好きではないのですが、やはりバラードは別格のような気がしています。バラードの短篇では「SFマガジン」100号の「溺れた巨人」が衝撃的に面白かったのですが、やはりこれも巨人が砂浜に打ち上げられていて・・・・・・という唐突な面白さ、シュールな組み合わせというものがあったからで、この短篇集ではやはり表題作の「終着の浜辺」にその衝撃を再び感じました。この作品はまた読み返したいと思います(すでに一度読んでもう一回読み返しましたが)。昨年、創元文庫で復刊されてるみたいなので、他の短篇集も読んでみたいと思います。
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