執政庁の最高権力者ベリックが失脚した!だが、彼に失策があったわけではない。ボトルとよばれる権力転移装置の無作為な動きがそれを決定したのだ。後任は無級者のカートライト。彼もまたボトルにより60億の人間の中から選ばれたのだった。しかし、それからわずか数時間後には、無級者から権力を奪いとるべく放たれた刺客が執政庁をめざしていた・・・・・・現代文学の地平を切りひらく異色作家ディックの記念すべき処女長篇!
うーん、面白い。
面白いけれど、よくわからん。三つぐらいの短篇をむりやりまとめたような感じです。
一番面白かったのは、超能力者と合成人間の対決です。権力者を守護する超能力者は人間の心を読み取ることができる。それゆえ、人間の認識を内面を通して把握している。それを逆手に利用して、合成人間を複数の人間で操作して、超能力者を混乱させる、というすごいお話です。なんだかサイバー・パンクっぽい設定ですごく現代的だと思いました。合成人間ペリッグが宇宙へ飛んでいくところなど、とても驚いたけれど、やっぱり人型ロボットはこれぐらいの芸当ができないとね。
権力者がランダムに変更されるという不思議な世界なのですが、これだと当選した人間がどんな能力を持っているかに左右されてとんでもないことになっちゃいますね。でも、現政権を見ているとあんまり変らないような気分になってしまいます。
現在のクイズ番組というのは、タレントが答えるものが中心となっているのでそうでもないんでしょうが、昔のクイズ番組は素人が出演して豪華商品を獲得できるというものだったようですね。一攫千金の夢もそこにはあったのでしょうか。翻訳が当初『太陽系クイズ』というものだったらしいですが、あまり内容とは関係ないです。
ラストのカートライトの奇策が物語の中で意外でした。全体的にディックらしい長篇だと思いました。
ディックの作品がまたもや映画化原作となったと『SFマガジン』で読みました。「ゴールデンマン」がどのように調理されているのでしょうか。たぶん、別ものになってそうですが、期待したいと思います。
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COMMENT
SFファンシーフリーについて
今度、来る四日に東京へ行くのですが、神保町でまたSFを探そうと計画しています。
今回は銀背だけでなく、A・T様みたいに昔のS‐Fマガジンも探してみようと思っています。
さて、今僕の手元には一冊の漫画本があります。手塚治虫の『SFファンシーフリー』(講談社)です。昔のS‐Fマガジンを蒐集しているA・T様ならご存知だと思われます。
この本のあとがきによりますと、当時S‐Fマガジンの編集長だった福島正実氏は、SF土壌のパイオニアでありながら、漫画に対しては、ある種の偏見を持っていたそうなのです。彼は各種のエッセーで、何かにつけて漫画にポンチ絵という呼び方で差別的な意見を述べており、S‐Fマガジンにも滅多に漫画は載せなかったそうです。手塚氏は一度でも彼と対決して、SF漫画論を戦わせてみようと思い、『SFファンシーフリー』と『鳥人大系』という漫画を連載したそうです。
もし漫画についての理解が得られていれば、今のSF漫画のあり方にも、かなりの影響があっただろうというのが、手塚氏の意見です。僕も同感です。平井和正氏や光瀬龍氏、豊田有恒氏は漫画の原作を書いたり、特撮やアニメの脚本を書いたりしていたのですから、SF作家と漫画家は、もっと手を結ぶべきだと思います。
長文、失礼しました。ではまた。
手塚治虫、福島正実
たしかに福島氏はマンガについてポンチ絵という発言もされていますが、全面的とはいえないまでも理解はされていたと思います。福島体制でも『SFマガジン』には石森章太郎のマンガも掲載されていましたしね。むしろ、時代状況からいって他の人たちがリベラルすぎたのではないかと。手塚の文章は読んでいませんがポンチ絵というのも、手塚などをさしていったのではないと(根拠はありませんが)思います。それに、正直、この時代のマンガは小説と比べると完成度はやっぱり低いでしょう。
むしろ、マンガはカウンターカルチャーであったからこそSFと手を結び、ここまで伸びたと思っています(その中には福島も手がけたジュブナイル、マンガ原作の功績もあるでしょう)し、もはやSF作家がマンガに手を染めなくても漫画家が独自のSFを書けばいい(星野之宣らのように)。SFの小説家はもっと小説に人々の目がむくように社会性を持つべきだというのが現時点での僕の意見です。時代に逆行しているかもしれませんが、僕は福島氏の意見に今強い共感を感じるのです。手塚治虫も福島正実も簡単に一口では語れない人物なので、難しいですね。
手塚の『SFファンシーフリー』は当時のSF作家の意識をも超えている部分があってすごいですね。お気に入りは「そこに指が」です。ただ構成的に絵物語という感じで、マンガといわれると少し首をひねります。