今回は北杜夫氏の『マンボウ交友録』(新潮文庫 昭和六十一年一月十五日)より。実際の連載時期は昭和五十六年(「まえがき」より)。
一つ目は「奥野健男氏」の章です。
一つ目はやがて私の『マンボウ航海記』を世に出してくれた宮脇俊三氏をまじえた交際であり、もう一つはしばらくあとのことで三島由紀夫氏がSFも好きで、そういう文学の話にもあう私たち二人をときどき招いてくださったからである。三島さんは文壇人の出没するようなバーが嫌いで、新橋などの三流キャバレーなどへも行ったりした。
前々回に提出した資料の中で三島由紀夫『美しい星』の「解説」でも奥野健男がSFの話をしていたという文がありましたが、その席には北杜夫しもいたのかもしれません。
文壇の一部にはこういったSF好きの人もいたようです。この中で北杜夫は「そういう文学」という風に、
文学の中にSFを含めています。これは北杜夫がSFを愛好しており、自ら数作書いていることもあるでしょう。ただ北自身は純文学を一段上に置いている発言等もしばしば見られるので、エンターテイメント文学であるSFは比較的低い位置に置かれているのではないかと僕は思います。
二つ目は「星新一氏」の章。引用が少しおかしな文章から始まりますがご愛嬌。
「酒乱になるのにも前戯が要る」
「前戯?一体どんなことをなさるので?」
「いろいろある。いちばんいいのは、やはり芥川賞、直木賞の話をすることでしょうな」
なるほど、今でこそSFは若者に好まれるが、それを理解する、殊に年配の文学者は滅多にいない。しかし、すでにSFには立派に市民権を獲得している一流文学作品も一杯ある。そういう点も、彼はおもしろからず思っているのではなかろうか。
ここでは星新一の発言から、SFが
若者に好まれ、年配の文学者は理解しないという点、
市民権を獲得している作品があるという点を挙げています(逆にいえばそうじゃない作品も多いということなのかも)。星新一の発言から、SFの話に繋がることを考えると北自身SFは正当な評価を得ていないという印象をもっていたと推測できます。実際に芥川賞、直木賞においてSFは、SF側から見ると、あまりいい目を見ているとはいえません。候補にはなるが、落選するということを繰り返しているからです。
ところで、この文章でも星新一伝説の一端が垣間見えますので、お好きな方にはオススメ。
ちなみに『どくとるマンボウ航海記』(新潮社 昭和35年3月20日)には以下のような文章があります。
なにしろ私はもう何年も医局にいるくせに論文一つ書こうとはしないのである。医局にいると大抵心理とか病理とかの研究室に配属され、いやでも共同研究か何か押しつけられてしまうものだが、私はそんなものを命じられぬよう、小部屋の一隅に『宇宙精神医学研究室』なる看板をかかげ、自らその主任と称し、そこに隠れて空とぶ円盤の書物なんぞばかり読んでいたのである。
「円盤の書物なんぞ」と書かれているところが注目すべきで、北がそれをどう思って読んでいようと、前文の論文や共同研究というものと対置されていることを考えると世間では低俗なものと見られていることを示しているように思われる(そうでないと笑いが成立しない)。もちろん現在においてもUFO話は怪しげなイメージだと思いますが。やっぱり町村外相のUFO発言はスポーツ新聞で大きく取上げられても、一般紙にはそうじゃないものなあ。
というわけで、今回は北杜夫氏のSF観でした。これに関してはもう少し資料を集めて補強していきたいと思います。PR
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