今回はSF界の怨嗟の声をお届けします。まずは戦う編集長福島正実氏の「日記――十月×日」(『S-Fマガジン』1963年12月号)より。
東京新聞の〈大波小波〉で『SF界、奮起せよ』という記事を読む。どうせ穴埋め記事ではあろうが、こうした種類の知りもしない知ったかぶりの記事は、毎度のことながら腹が立つ。
まず気にいらないのは次の一文だ。
『サイエンス・フィクションは、一時、推理小説の分野の三分の一ぐらいは奪うのではないかと思われたが、推理小説ブームのなかについに組みこまれず、いまだに片すみ的存在で、ディレッタントの仕事の趣がある』
こんなことが書いてある。(略)
『ディレッタント』としてでなく、プロとしてSFをやっているぼくらの願いは、猫も杓子もSFファンになったチンドン屋みたいな世界ではなく、SF的なものの考え方、SF的な話の楽しみ方が、特別あつかいされないような、洗練された世界の出現することにこそある。(略)
腹が立つのはそのせいなのだ。悪口の一つもいわなければ、腹が癒えないのはそのせいなのだ、このブタめ!
「大波小波」とは、東京新聞誌上で行われていた匿名批評。省略しましたが、ここでは「大波小波」への反論として①「SFは推理小説の分野の三分の一ぐらいを奪うのではないか」と思われたことはない②「推理小説ブームの中に組み込まれる」必然性もない③そんなこととは関係なしに、「ディレッタント」の領域をすでに突破した普及振りを示している と語っております。ここでは知ったかぶりするジャーナリズムのいい加減さに怒っておられます。「プロとして」とプロとアマをわける言動も福島正実らしいです。
このブタ筆者は、また、某SF同人誌の六周年記念のために、三島由紀夫が写せた短文を、まったく無理解半可通に、次のように引用する。
『三島の注文は本来知的で自由なジャンルであるSFに、国籍不明な片仮名名前の人物が出て来てハードボイルドまがいの言行を示したり、逆に日本的な香りを出そうとして失敗する愚をついている』(略)
もちろん、犀利な頭脳の持主である三島由紀夫が、しんからそう思うはずはない。彼にこういわしめたのは、不用意さだ。いかに卓抜な頭脳といえども、不用意であってはならないというお手本みたいな三島由紀夫の発言なのだ。
「SFが、近代ヒューマニズムを克服する最初の文学かもしれない」という『卓見』は、主張としてだけならばなにも彼だけのものではない。というよりも、こんなお先っ走りのブタ君に引用されるのは、彼の本意ではあるまい。
省略しましたが、ここで福島は日本のSF作家が片仮名名を使うのは、未来世界が国家の群落であることをやめ「無国籍」になるからこそそうするのだと「三島の不用意さ」を責めています。その上で「SFが近代ヒューマニズを~」という三島の主張は別に彼特有のものでなく、誰でも言ってんだ、わかりきったことなのだ、ということを述べています。そして、ここでも「大波小波」の不勉強(というより知ったかぶり)を怒っています。
ブタ君は結びにいう。
『SF界はフェスティバルで元気を出すばかりでなく、ここらで脱皮し、奮起せねばならぬ』
よせやい。ああ、よせやい。他人事ながらこっちが恥かしくなる。フェスティバルで元気を出しているいるのは、お祭好きの無邪気な人たちだけなんだよ。本物のSFは、そんなところでではなく、もっと地についた諸々の文学現象の中に、着々と沈潜しつつあるんだよ。(下線部、着色は引用者)
ここでもハッキリとプロとアマの存在をハッキリわけようとしています。これではファンジンなどのアマ側と仲が悪くなるのもしょうがないなあと思ってしまいます。そして、福島正実にははっきりと文学志向の考え方が見えると思います。
まあ、確かに「大波小波」の不勉強さはハッキリと表れています。しかし、SFは推理小説ジャンルの一つという考え方は根強かったわけですから、一般の考え方を踏襲していたともいえます。最後の一言は悪意があるのかないのか判断はできませんが、本当に余計な一言ですね。
さあ、そしてヒステリックといえるほどの反応を示す福島編集長。「このブタめ!」とこの一ページしかない文章の中で五回も「ブタ」という呼称を使用しています。そんなに我慢ならなかったんでしょうかねえ。
なんにせよ引用文というものについて考えなければなりませんね。自分の主張したいがための恣意的な引用にならぬよう僕も気をつけます。三島の手紙については全集からさがしてきたいと思います。PR
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