今回は少し毛色を変えて、寺山修司『不思議図書館』(角川文庫 昭和五十九年三月二十五日初版発行)を資料に考えたいと思います。「2◎ロボットと友だちになる本」より以下の文章を。
ロボットといえば思い出すのは、フィリップ・ディックというアメリカのSF作家のことである。
彼はいくつかのすぐれたロボット小説を書いているが、なかでも私の心に残っているのは「パーキー・パットの日」という短篇である。(略)
科学が超人的能力の比喩というかたちをとるハリウッド映画のロボットたちに比べれば、SF文学の中のロボットは、しばしば絶望的な未来を象徴している。
そのことについて、ロバート・マローンは、
「多くの現代作家たちにとって、機械人間は生きている人間の比喩である。
そして、しばしば抹殺された人間のシンボルというかたちをとるのである」
と書いてある。
ディックの場合もそうであったが、文学の中のロボット像は、「人間の複製」または「再現」として描かれることが多く、それは(たとえ、どのように科学の粋をこらしても)、ヒューマニズムの未来を異化し、人間を「計る」ためのモデルとして登場することが多いようである。
ロボットに女性が多いのも、現代人の「女性観」と無縁ではない。
たとえば、星新一の「ボッコちゃん」では、ボッコちゃんが「うまくできて」「あらゆる美人の要素をとり入れ」「頭はからっぽに近い」女のロボットとして描かれる。
いかにも寺山修司らしい文章で写していて楽しくなってしまうのですが、ここではフィリップ・ディックと星新一の二人の作品が提出されています。ここではロボットの作品に限定してはありますが「絶望的な未来」が多いと語られています。「ディックの場合もそうであったが、文学の中のロボット像は」という風にSFは文学の中に含まれています。寺山は進歩的(というより自由なという形容が似合うような気がしますが)な文化人であったし、マンガなどの他メディア作品も認めていたのでSFに関しても普通に文学作品だったのでしょう。
七十年代以降の文化状況を象徴する偉人寺山修司。ハイカルチャーとカウンターカルチャー、二つの対立項を突き崩しているその偏見のない目がSFものからすると嬉しくなってくるのではないでしょうか。
僕は体制への反抗というものに、SFや怪奇ものなども含まれていて、それを愛好することが若者の一つの自己表現であったのだと考えています。学生運動などもその一つではなかったかと推測しています。寺山の場合もそういう意識が少しはあったのではないかなあと思います。PR
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