今日は『国文学 解釈と教材の研究』昭和六十一年8月号より。大衆文学の特集号です。ちょっと面倒くさいので、SFと記されているところを片っ端から挙げていきます。
磯田光一・川本三郎「大衆文化、近代化のなかで」対談
〈大衆文学〉は歴史的概念
磯田 〈大衆文学〉という言葉自体に、ぼく自身ずいぶん抵抗を感じるんです。〈大衆文化〉というのだったらある程度はわかるけれども、今や隆盛のSFやノンフィクションその他ひっくるめて、かつて大衆文学と呼ばれていたものに含めていいのかどうか。(略)大衆文学という概念そのものが歴史的概念と言い切っていいのではないか。むしろエンターテイメントの可能性として考えたほうがいいのではないか。
昭和二十年代の位置
磯田 そうすると、どうでしょうかね。高度成長以降いろんな形でSFその他となって現れてくる、その流れをさかのぼった場合、昭和二十年代だったらどんなものがあるかしら。
川本 作品でですか。あのころですと映画があり、トーキーになるところですね。
磯田 昭和初年の場合ですね。だからやはりSFとか、ああいうものは新感覚派とかあの時代から・・・・・・
川本 稲垣足穂はそうですね。大衆文学のほうではそういう流れはあるかなあ。
磯田 やっぱりウエルズとか、ああいう宇宙ものの翻訳なんかも基礎になっているのかもしれないな。
川本 映画の中ではすでに、そもそもジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』というのはSFですから、そういうのはおかしくなかったと思いますね。
磯田 そうするとこんどは中間小説そのものが純文学と大衆文学との中間路線を行きながらも、また一方映画という新ジャンルが、逆に未来小説的なものを先取りしちゃってる面はありますね。
尾崎秀樹「変貌する大衆文学―大衆文学の論理―」
社会派推理の書き手だった梶山秀之、水上勉、黒岩重吾らは次第に風俗性を加え、それぞれの鉱脈を掘り進み、企業物に、土着的なものに、あるいは現代人の欲望にメスを入れる方向にと展開してゆくが、同時に時間や空間の軸を自在にとらえた作品も多くなり、SFやPFが人気を集める。星新一のショート・ショート、筒井康隆のパロディ、小松左京の政治小説的社会批判など、戦後世代の読者をとらえ、SF的手法は純文学から時代小説にまで波及する。
戦後の大衆文学は「現代性」と「風俗性」と「記録性」の三つの要素を強めてきたという著者の主張から、上記のように松本清張・森村誠一が取り上げられ、その流れの中でSFはポリティカル・フィクションと同列で取り扱われている。ここでは文学の側から「SF的手法は純文学から時代小説にまで波及する」と書かれており、注目される。
由良君美「日本大衆文学のSF的展開―賀川豊彦『空中征服』の一考察―」
従って『死線を越えて』と同様、『空中征服』も賀川の抱く社会理想からの現実批判であるから、この作品をひたすら純粋ファンタジーとしてのSFと考えることにはもとより難点があろう。
しかし広く大衆文学ないし〈下位文学(Subliterature)〉ないし〈下からの文学(Infraliterature)〉を考慮に入れて考えないならば、近代日本におけるSFの展開も、いきおい第二次大戦以降のSFジャンルの隆盛化の時期以降に限られてしまい、本来〈御噺〉として成立し、上位文学の底流をなしながら、つねに上位文学の枯渇に対して活性源をなしてきた目にみえないものの文学史を切り落してしまうことになろう。
ことに日本の上位文学には乏しいユートピア的SF的文学の系列のなかにあって、大衆文学におけるこの系列は豊とは言えないにしても、明らかに戦後におけるSFのジャンル的商業的独立の素地を形づくっていると考えねばなるまい。
また幻想文学のジャンル的独立に伴い、幻想文学とSFとの相違も多くの議論の対象となり、旧来のユートピア文学、アレゴリー文学との区別の問題も紛糾を極めている。(略)わたしの考えの極く要点のみを述べれば、トドロフのように〈驚異的なもの〉〈気味わるいもの〉と〈幻想的なもの〉との間に一線を画そうとするのには無理があり、またサヴィンのように〈驚異的なもの〉〈異化的なもの〉をSF本来の要素として確立しようとするのにも難点があり、またラブキンのようにリアリズム的「物語世界の規定諸規制」の百八十度転換を〈幻想的〉と考える区別も定立不可能だということである。むしろマーク・ローズの考えのように、SFすら「ロマンスの一形式」として緩く把握し、そのなかに数種の特徴を立て、さらに歴史的限定を加えるのが妥当ではないかと考える。
このアレゴリー性と並行して、時間=空間の自由な変換というSF性が同時的に進行し、この作品のSF的性格を強く印象づける。(略)〈時空乱し〉によるSF的手法は、賀川のキリスト教社会主義のドグマと重なり合うとき、この作品のもう一つの特徴を形づくる。
だがわれわれは思う、第二次大戦後の日本で、昭和四十年代を前後して大正期から昭和初期の大衆文学の伝奇小説や探偵小説が復権され、科学技術・宇宙科学の現実における発展と、テレビその他の視覚メディアの日常化のなかで日本のSFも飛躍的な進歩をとげ、小松左京、筒井康隆、光瀬龍、眉村卓、平井和正たちが陸続と現われ、現在はその第二世代まで登場する隆盛を誇ることになったが、その基底に幾多の腐葉土があったとして、その隠れたしかし確実な捨石の一つに、賀川のいささか不当に無視されている『空中征服』があるということを。
由良君美さんは元東京大学教授・英文学者であり、巽孝之『日本SF論争史』にもその名は登場します。ここでは上位文学と下位文学にわけていて、SFは下位文学のほうに入っています。しかし、もちろん下位文学を否定しているわけではありません。この時代はSFが文学に注目されていて、『国文学』誌上でも幾度かSFの特集が組まれています。主にSF的な手法が注目されていたのですが、ここにもそれが表れていると思います。ここまで全部いずれもSFが隆盛しているというふうに書かれていますね。
エンターテイメントの旗手たち
作家紹介のコーナーです。19人の作家が紹介されています。SF専門の作家は入っていず、筒井康隆、半村良という比較的オールラウンダーな二人が入っています。あくまで僕の印象かもしれないですが。
大衆文学・名作文学館への招待
名作を紹介。74作品が挙げられています。その中でSF関係は井上ひさし『吉里吉里人』、星新一『作品一〇〇』、筒井康隆「東海道戦争」、小松左京「日本アパッチ族」、半村良『妖星伝』です。あと個人的に「くの一忍法帖」「ドグラ・マグラ」もSFっぽいですよね。
以上でございます。次回は同じ『国文学』のSF特集号を取上げたいと思います。PR
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