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SF素人が空想科学小説に耽溺するブログ。

モラトリアム

   

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SF研究⑮『図書新聞』昭和37年10月27日 柴野拓美「S・F その特殊性」

 本日は柴野拓美氏の「S・F その特殊性 奇妙な跛行現象 作家と読者の間」という文章です。

 ほんの一年ほど前までは、少なくとも一般むき新聞・雑誌の紙面では、SF(空想科学小説)といちいち断り書きをつけていたものである。それだけ普及したのは慶ぶべきことだが、いや、普及したのはSFという呼び名ばかりで、中身のほうはさっぱりさ、という意見もある。どうやらまだ手放しで喜ぶには早すぎるようだ。

これが書き出しで、SFの現状が翻訳ものに頼り、日本人作品が少ない、そして多くは『宇宙塵』『NULL』といった雑誌が新人の主な活躍場所となっていることを述べています。

 SFという名前だけが先に突っ走っていて、それを裏づけるべき市場と作家が、引き離されてしまっている感が深い。

 この奇妙な「跛行現象」は、この理由を「第一は、宇宙開発の進展など科学技術界の華々しいニュースに刺激された、社会の関心の先行、つまり、SFという言葉が一種の流行語扱いされているということだ。「まるでSFだ」などという表現さえ生まれているようなぐあいである。」「第二に既成文学の沈滞に伴い、目新しさを求める一部のマニアの先物買いがあげられる。」としている。これを要約して、柴野氏は「海外SFへの追随に急なあまり、日本の風土に密着した実質的発展のための努力がなおざりにされている」と指摘しています。

 結局、この新しい文学は、日本では未だ充分に理解されていないことになる。他の面からみれば、従来の「科学小説」という言葉からうける、とっつきにくさ、あるいは子供の読みもの的印象が、いまの「SF」の名で代表されるものとの間にある断絶感を生み出していることも、一つの説明になるだろう。

 この後、SFがそのようなイメージから「荒唐無稽」と非難されることについて、恋愛小説の男女関係や推理小説の奇抜なトリックのほうが必然性に欠けており、そうであれば「SFの設定における「飛躍」」は受け入れられるはずであると述べています。

 その飛躍は、一見超現実的なかたちをとりながら、その実、現代の科学が否定し去ることのできない――いや場合によってはそれが外挿法によって当然予想される――ところのものである。この一種独特の必然性が、SFの文学としてのリアリティを支えている。SFの「特殊性」が、ここにある。

題名を見るとここがこの文章の主旨ということになるでしょう。この後、米国、ソ連のSFの特徴をそれぞれ挙げ、この両者を「並列的に無選択に受け入れているのが、日本SF界の現状」と延べ、最後にSF界の課題と展望が挙げられています。

 ともあれ現在、多くの人々がSFの名だけを知ってその本質を知らないでいる現状を、いかに打開するかが、日本SF界の当面の課題であろう。注目すべきことは、SFの新らしい読者の多くが口をそろえて、今までSFの面白さを知らずにいたのは一生の損失だったと語っていることである。日本におけるこの分野の将来は、案外に明るいのではないだろうか。

 『SFマガジン』が刊行されてまだ二年目の、SFの若かりし時代がわかる文章ではないでしょうか。
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SF研究⑭ 『国文学 解釈と鑑賞』特集・現代文学研究 昭和56年二月号

 これは多様化する文学状況の中で、純文学と大衆文学の区別はどういったところにあるか、という議論の中での柘植光彦氏の発言です。柘植光彦氏は文芸評論家・研究者です。

柘植 僕はやっぱり多様化という問題と重なってくるのと、筒井康隆なんか若い作家が直木賞選考委員を殺す「大いなる助走」という小説を書いていますが、SFの作家に直木賞が与えられない。半村良が貰ったのも「雨やどり」という新宿のバーの男と女の話でSFではない。つまり、直木賞が大衆小説に与えられていないということ。以前は芥川賞が純文学だったのが、今は直木賞までもある意味で大衆小説を差別するものとして成りたっている。最後の砦として芥川賞、直木賞があるというふうな感覚なんです。基盤を広くすると、たとえばSFはたいへん若い人に読まれているし、筒井康隆とか半村良の作品となると、たとえば半村良の「妖星伝」の第五部なんていうのは埴谷雄高の「死霊」に匹敵する哲学的な物語になっているし、筒井康隆の七瀬三部作なども哲学的、思想的な物語といってもいいけれども、あれは相変らず純文学の中には入れられていないんですね

ここでは、文学状況の問題が挙げられ、直木賞で大衆小説(その中としてのSF)が差別され、SFの中でも半村良「妖星伝」「七瀬三部作」は純文学の範疇に入ると柘植氏は考えておられるようです。

ちなみにこの号には関連して「作家エッセイ」というものがあるのですが、その中には筒井康隆「ユング「文芸と心理学」をめぐって」・半村良「文芸人の弁」が収録されております。また、「第二特集 女とは何か」では、「男性作家の描く「女」」として、青木はるみ「筒井康隆“七瀬三部作”の七瀬」という論考が掲載されています。

SF研究 「〝ファンジン(SF同人誌)〟日本版の水準 アイディアが先き走る」

 本日は昭和37年1月20日の図書新聞より、「〝ファンジン(SF同人誌)〟日本版の水準 アイディアが先き走る」という記事です。科学創作クラブ編集発行『宇宙塵』、ヌル編集室発行『ヌル』が批判されております。

 最初にキングズリイ・エイミスの『地獄の新地図』でジャズとSFが同様に下からの突き上げによって成長したことを言い、ファンジンの説明があります。アメリカではファンジン出身の人がプロになっているという解説があった後、以下のように続きます。

 日本でも、こうした動きは当然ある。機関紙『宇宙塵』に拠る科学創作クラブがその代表的な存在で、すでに五年以上つづいているし、ほかにも、たとえば大阪には『ヌル』という同人誌がなかなか熱心な活動をしている。が、不幸にして日本の場合は、あまり積極的な役割を演じていないというのが実情だ。
 理由としてはいろいろあろうが、第一にはやはり、小説としての技術の未熟さ、SF的なアイデアが、そのまま小説になると考える素朴なアマチュアリズムが、同人作家の成長をさまたげているのだろう。


 そして、「アイデアの貧困な既成作家のSFよりも、自分たちのほうがより純粋なSFなのだ、という自惚れがあるように思える」、プロになろうという欲求とそれが絡み合い、「星新一がSFショート・ショートで売りだせば、猫も杓子もショート・ショートを書こうとする」といったような批判が展開されています。最後に、「こうした面の反省がないかぎり、まだしばらく、日本のSFは、否応なしに既成作家に依存せざるを得ないだろう。」と締めくくられます。

 無署名の記事ですので、誰が書いたか判じることはできません。
 ただ、まだまだ日本のSF作家が育っていない時分の時代背景がわかるのではないでしょうか。自分としては、筒井康隆が中心となった『NULL』がこんなに大きな扱いをされているとは意外でしたので、新たな発見でした。

SF読もうぜ(294) スティーヴン・キング『ドリームキャッチャー1』

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「クソは変わらず日付が変わる」をモットーに、メイン州の町デリーで育った、ジョーンジー、ヘンリー、ビーヴァー、ピートの4人組。成人した今、それぞれの人生に問題を抱えながらも、毎年晩秋になると山間での鹿撃ちを楽しんでいた。だが、奇妙な遭難者の出現をきかっけにいやおうもなく人類生殺の鍵を握る羽目に――。モダンホラーの巨匠が全精力を注いだ畢生の大作、開幕!

SF読もうぜ(293) ロバート・シェクリイ『不死販売株式会社/フリージャック』

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 時速80マイルで走っていたトマス・ブレインは、突然の自動車事故のため、頭はガラスを突き破り、胸にはハンドルが突き刺さり、背骨が折れ、苦痛を感じる暇もなくあっさりと死んだ。だが、目を覚ますと、そこは百年以上も先の未来。しかも、死から生き返らされたブレインは、幽霊やゾンビイが跳梁跋扈する超未来的世界で、恐るべきハンターに追いかけられるはめに・・・・・・話題のSFX映画『フリージャック』の原作ついに登場!

SF読もうぜ(292) ポール・アンダースン『大魔王作戦』

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将軍がいった。「これは危険な任務だ。必ずしも志願しなくてもよいが、任務の重要さだけは知ってもらいたい」やれやれ、つまりいやおうなしに志願しろってことだ。ぼく、米国情報部員マチュチェック大尉は、かくて天下分けめの大作戦にとびこむはめになった。相棒はとびきりの美人、魔女のグレイロック大尉。トロールバーグを占領中のサラセン教主軍に潜入し、彼らの魔人を無力化するのがその任務だ。連合軍の大反撃が成功するかどうかは、ぼくら二人の活躍にかかっていた・・・・・・科学の代わりに魔法が発達したもう一つの地球を舞台に繰り広げられる傑作冒険SF

SF研究⑪ 福島正実『未踏の時代』(1)

 本日は福島正実『未踏の時代』。日本SF史を語る上で外せない本です。

 その当時のジャーナリズム一般の空気は、SFに対して、全く否定的だった。SFを読み、あるいは語ることは、アブノーマルなものへの関心を自白するようなものだった。変りもの扱いにされることを覚悟しなければならなかったのだ。そんな体験からも、ぼくは、日本におけるSF出版の可能性に対して、かなりの程度に悲観的だった。現実にしか目を向けることができず、未来や空想は、絵空事としてひとしなみに軽蔑してかかることしか知らない人々が、あまりにも多すぎた。そうした人々に、SFの効能をいかに説いても、所詮は馬の耳に念仏としか思えなかった。


 ジャーナリズムがSFに対して、「否定的」であったこと、SFを読む、語ることが、「アブノーマル」とされていたことがわかります。また、空想的なことが軽蔑されることが書かれています。

 次に、1959年、『SFマガジン』創刊前に福島氏が原稿依頼、またアドバイスを求め行った場での作家の反応です。

 当時はまだ気象庁の、たしか、計測器課長だった新田次郎さんを、役所に訪ねて行ったときのことも、忘れられない。作家と、公務員との二重生活の重圧に疲れた顔の新田さんは、「SFほど労多くして功少ないものもない。もうSFを書く気はない。きみたちも、SFは諦めた方がいいだろう」
 と忠告までしてくれた
ものだった。
 新田さんは正直だったのだ。やはり同じころ、何かアドヴァイスを――というより、激励の言葉をと思って訪ねた故江戸川乱歩氏も、SF雑誌をという話を聞くと首をひねり、商業的に成り立っていく目算があるのか、とやや詰問調でぼくに訊いた。乱歩さんはこの頃、まだ早川書房のミステリーシリーズの監修者でもありEQMMの創刊には並々ならぬ尽力をなさったこともあって、早川書房がSFのような全く未踏の――そして、十中七八まで不毛であろう領域に手を出して失敗することがあっては困ると危惧されたらしかった。
 結局、ぼくを励まし積極的に話相手になってくれたのは、安部公房氏くらいなものだった。安部さんはSFが現代小説の新しいジャンルになるだろうということに、ぼく以上の確信を抱いているように見えた。ぼくはしばしば安部家からの帰り道を、かなり昂揚した気持で何やらしきりと考えながら歩いていたことを思い出す。

 もちろん、福島氏の主観もいくらか入っているでしょうが、新田次郎→「SFはもう書かない。諦めた方がいい」、江戸川乱歩→「商業的にやっていけるのか?」、安部公房→「現代小説の新しいジャンルになる」という反応です。SFを書いている人、肯定している人でも不安があることを前二人は語り、安部公房は前向きであったらしいことがわかります。

 とりあえず今回はここまで――。

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