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SF素人が空想科学小説に耽溺するブログ。

モラトリアム

   

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SF研究 『国文学 解釈と教材の研究』筒井康隆 現代文学の実験工房

 今日は『国文学』昭和五十六年八月号の筒井康隆特集号を資料に考えたいと思います。

山口昌男「筒井康隆に関する三つの断章」

 第三の断章 方法論的に

 筒井氏の「やつあたり文化論」の解説の中で小中陽太郎氏も指摘していることであるが、「現代SFの特質とは」(国文学50・3)と題する氏のSF論は、今日最も刺激的な文学論の一つである。
 筒井氏が、親近感を抱いている作家大江健三郎氏の「ピンチランナー調書」や「同時代ゲーム」、または石川淳氏の「狂風記」などの、今日最も意識してラディカルな方法の開拓を目ざしている作家の作品が、時間の制限を越える綺想の展開という一点においてSFに近づいていることは、様々な人によって指摘されていることである。

 
山口昌男氏は人類学者です。ここでは文学の手法がSFに近づいているという、「SFの手法を取り入れる」という言説とはニュアンスが異なっています。山口氏は筒井氏の「SFが荒唐無稽な絵空事と蔑まれる」という傾向を嘆いていることを記号論によって説明します。

 
イスラエルの記号学者イトマール・イヴェン=ゾハールは、一文化の中の文学は複合系(ポリシステム)から成っていると説く。つまり、これまで、ジャンルの交替というような形で言われて来たことを、イヴェン=ゾハールは、「正統(しょうとう)」と「非正統」の間のダイナミックな関係で説明がつくと言う。「認定された」分野は、文学の世界の中心を構成し、「認定外」は周縁にとどまる。イヴェン=ゾハールは、後者の例として児童文学の手法、翻案小説を挙げる。「認定外」の手法は、ふつう正統文学の基準に拘束されない自由を享受するから、通俗文化の中に組み込まれている大胆な発想を容易に自らの中に取り込むことができる。その結果、筒井氏の定義する次のような特色をSFは帯びる。

 
そして、「超虚構性」が「正統(カノナイズド)」小説(おそらくリアリズム小説)が潜在的に持つ虚構性を、SFはその手法(時間の操作、空間の転位)によって表面化してしまうことが語られます。そして、「超虚構性」を使って成功をおさめたのが中南米文学であるという主張があるのです。「記号論によるSF理解」の部分はものすごく面白いですねえ。

小林信彦「助走の時代」

 昭和三十八年がどういう年かといえば、三月五日にSF作家クラブの発起人会が開かれ、東都書房が〈東都SF〉の一冊目として「燃える傾斜」を刊行したとしか言いようがない。ミステリー・ブームが続いており、SFはマスコミ的にみれば存在しているかどうかがたよりない時期である。(もちろん、「SFマガジン」は出ていたが、外部の目でみれば、辛うじてという感じで、それが苦戦だったことは福島正実がのちにみずから記している。)

 純文学関係者がそうであるように、当時のSF関係者は、テレビの裏方で稼ぐのならまだしも、中間小説誌にSF作家が執筆するのを嫌っていた。それによってSFそのものが低く見られるのをおそれたのであろう。

 その種の雑誌を編集している知人に問い合わせると、
 ――あの人には注目していた。SFは要らないが、新しいユーモア小説なら欲しい。
 という返事だった。


 小林信彦氏はもちろん作家。僕は「唐獅子シリーズ」や「オヨヨシリーズ」が好きな作品です。この文章から推測するに、上の文章は『未踏の時代』を参考にしているように思えます。筒井氏が中間小説誌に進出するときに、小林氏がその紹介役をしたというお話です。

柘植光彦「エッセイスト筒井康隆の批評精神」

 
あるいはこの“怪しげ”という感覚の中には、日本のSF作家というものに対する“うさんくささ”が、かなり大きく含まれていたかもしれない。私はSF好きのほうだが、日本の「SF幼年期」のころの作家たちのオリジナリティのなさには、失望していた。一人だけある作家のショート・ショートが好きだったが、その中でも特に気にいっていた一篇の完全な原型を、あとでフレドリック・ブラウンの短篇集の中で発見したときには、本当に絶望した。もう二度と日本のSFは読むまいと思った。とにかくアイデアばかり、それも模倣のアイデアばかり先に立ち、哲学もなければ思想もない。そういう一時期が確かにあったと思う。残念ながら今でも、海外のSFのほうが、はるかに私を刺激する。

 柘植光彦氏は文芸評論家。かなり手厳しい評価です。ブラウンの作品ってのはいったいなんなのでしょう。気になります。
 ほかに「筒井康隆の批評精神の特色」の中の〔攻撃方法〕の項で「SFジャンルの文明批評性」というふうに挙げられています。

奥野健男「“空間”の革命的抒情詩人 筒井康隆への序説」

 ぼくはエンジニア出身であったためか、SFには特別の関心があり、アシモフやハインラインやクラークやエルレーモフ=レムのような本格的なSFが日本にうまれることを願っていた。だから安部公房の「第四間氷期」を先駆として、「ボッコちゃん」の星新一、さらには小松左京ら、SF作家の出現に、ぼくは快哉を叫んだ。(なぜなら、ぼくの理科系の友人の多数は、日本の文学者は自然科学ぎらいで、科学に全く弱いから、日本に本格的SFなどうまれるわけはないと広言していたし、一方文学関係の友人たちはSFなど文学じゃないと頭からバカにしていたから。)

 ここでは黎明期のSFに対する文学側からの意識が見えると思います。

荒巻義雄「エディプス王としての筒井康隆」

 我々人間の文学を読む動機は様々である。そうした文学・読者・社会環境の総体的関係において、文学は捉えられるべき時代に来ていると思う。今や、文学は“芸術のための芸術”を標榜して孤立することはできないのだ。
 “内向”の世代が、己れの内面に閉じ籠り過ぎたために難解なものとなり、読者大衆に対し全く何らの影響を与えなかった前例をみるにつけ、私は強くそう思う。筒井康隆に限らずSFが成功した理由も、そこにある。我々は通俗を惧れず読者に直結した。批評家を恐れず、大衆化を意識した。しかし、SFの通俗性はよく教育された今日の若い人たちの要求に、十分答え得るものである。

 
荒巻義雄氏はSF作家。ここではSF界内部の言説として荒巻義雄はSFは大衆読者と繋がってきたからこそ成功したといい、純文学の独りよがりなところを批判しているように思います。時代の傾向が中間小説化していく中で出た発言でしょうか。

 ほかに川又千秋の「SF、虚構の優位」は「これまでのSFは虚構であることから目をそむけてきた」とし、ガーンズバックをはじめとして、SFとは「有用であり」「正当性を持ち」「社会的に存在意義があり」・・・・・・「決してただの夢物語ではない」ということをしきりと強調していた。しかし、筒井康隆は処女短篇集でこう言い放った。「SFは法螺話だと思っている。」SFの虚構性が意識されたのはニューウェーブのときであって、筒井康隆というSF作家の意識がここからわかる、という非常に面白い指摘をしている重要な筒井康隆論です。
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SF研究⑧ 『国文學 解釈と教材の研究』大衆文学・物語のアルケオロジー

 今日は『国文学 解釈と教材の研究』昭和六十一年8月号より。大衆文学の特集号です。ちょっと面倒くさいので、SFと記されているところを片っ端から挙げていきます。

磯田光一・川本三郎「大衆文化、近代化のなかで」対談

〈大衆文学〉は歴史的概念

磯田 〈大衆文学〉という言葉自体に、ぼく自身ずいぶん抵抗を感じるんです。〈大衆文化〉というのだったらある程度はわかるけれども、今や隆盛のSFやノンフィクションその他ひっくるめて、かつて大衆文学と呼ばれていたものに含めていいのかどうか。(略)大衆文学という概念そのものが歴史的概念と言い切っていいのではないか。むしろエンターテイメントの可能性として考えたほうがいいのではないか。

昭和二十年代の位置

磯田 そうすると、どうでしょうかね。
高度成長以降いろんな形でSFその他となって現れてくる、その流れをさかのぼった場合、昭和二十年代だったらどんなものがあるかしら。
川本 作品でですか。あのころですと映画があり、トーキーになるところですね。
磯田 昭和初年の場合ですね。だからやはりSFとか、ああいうものは新感覚派とかあの時代から・・・・・・
川本 稲垣足穂はそうですね。大衆文学のほうではそういう流れはあるかなあ。
磯田 やっぱりウエルズとか、ああいう宇宙ものの翻訳なんかも基礎になっているのかもしれないな。
川本 映画の中ではすでに、そもそもジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』というのはSFですから、そういうのはおかしくなかったと思いますね。
磯田 そうするとこんどは中間小説そのものが純文学と大衆文学との中間路線を行きながらも、また一方映画という新ジャンルが、逆に未来小説的なものを先取りしちゃってる面はありますね。

尾崎秀樹「変貌する大衆文学―大衆文学の論理―」

 社会派推理の書き手だった梶山秀之、水上勉、黒岩重吾らは次第に風俗性を加え、それぞれの鉱脈を掘り進み、企業物に、土着的なものに、あるいは現代人の欲望にメスを入れる方向にと展開してゆくが、同時に時間や空間の軸を自在にとらえた作品も多くなり、SFやPFが人気を集める。星新一のショート・ショート、筒井康隆のパロディ、小松左京の政治小説的社会批判など、戦後世代の読者をとらえ、SF的手法は純文学から時代小説にまで波及する。

 戦後の大衆文学は「現代性」と「風俗性」と「記録性」の三つの要素を強めてきたという著者の主張から、上記のように松本清張・森村誠一が取り上げられ、その流れの中でSFはポリティカル・フィクションと同列で取り扱われている。ここでは文学の側から「SF的手法は純文学から時代小説にまで波及する」と書かれており、注目される。

由良君美「日本大衆文学のSF的展開―賀川豊彦『空中征服』の一考察―」

 従って『死線を越えて』と同様、『空中征服』も賀川の抱く社会理想からの現実批判であるから、この作品をひたすら純粋ファンタジーとしてのSFと考えることにはもとより難点があろう。
 しかし広く大衆文学ないし〈下位文学(Subliterature)〉ないし〈下からの文学(Infraliterature)〉を考慮に入れて考えないならば、近代日本におけるSFの展開も、いきおい第二次大戦以降のSFジャンルの隆盛化の時期以降に限られてしまい、本来〈御噺〉として成立し、上位文学の底流をなしながら、つねに上位文学の枯渇に対して活性源をなしてきた目にみえないものの文学史を切り落してしまうことになろう。 
 ことに
日本の上位文学には乏しいユートピア的SF的文学の系列のなかにあって、大衆文学におけるこの系列は豊とは言えないにしても、明らかに戦後におけるSFのジャンル的商業的独立の素地を形づくっていると考えねばなるまい。

 また幻想文学のジャンル的独立に伴い、幻想文学とSFとの相違も多くの議論の対象となり、旧来のユートピア文学、アレゴリー文学との区別の問題も紛糾を極めている。(略)わたしの考えの極く要点のみを述べれば、トドロフのように〈驚異的なもの〉〈気味わるいもの〉と〈幻想的なもの〉との間に一線を画そうとするのには無理があり、またサヴィンのように〈驚異的なもの〉〈異化的なもの〉をSF本来の要素として確立しようとするのにも難点があり、またラブキンのようにリアリズム的「物語世界の規定諸規制」の百八十度転換を〈幻想的〉と考える区別も定立不可能だということである。むしろマーク・ローズの考えのように、
SFすら「ロマンスの一形式」として緩く把握し、そのなかに数種の特徴を立て、さらに歴史的限定を加えるのが妥当ではないかと考える。

 このアレゴリー性と並行して、時間=空間の自由な変換というSF性が同時的に進行し、この作品のSF的性格を強く印象づける。(略)〈時空乱し〉によるSF的手法は、賀川のキリスト教社会主義のドグマと重なり合うとき、この作品のもう一つの特徴を形づくる。

 だがわれわれは思う、
第二次大戦後の日本で、昭和四十年代を前後して大正期から昭和初期の大衆文学の伝奇小説や探偵小説が復権され、科学技術・宇宙科学の現実における発展と、テレビその他の視覚メディアの日常化のなかで日本のSFも飛躍的な進歩をとげ、小松左京、筒井康隆、光瀬龍、眉村卓、平井和正たちが陸続と現われ、現在はその第二世代まで登場する隆盛を誇ることになったが、その基底に幾多の腐葉土があったとして、その隠れたしかし確実な捨石の一つに、賀川のいささか不当に無視されている『空中征服』があるということを。

 
由良君美さんは元東京大学教授・英文学者であり、巽孝之『日本SF論争史』にもその名は登場します。ここでは上位文学と下位文学にわけていて、SFは下位文学のほうに入っています。しかし、もちろん下位文学を否定しているわけではありません。この時代はSFが文学に注目されていて、『国文学』誌上でも幾度かSFの特集が組まれています。主にSF的な手法が注目されていたのですが、ここにもそれが表れていると思います。ここまで全部いずれもSFが隆盛しているというふうに書かれていますね。

エンターテイメントの旗手たち

 作家紹介のコーナーです。19人の作家が紹介されています。SF専門の作家は入っていず、筒井康隆、半村良という比較的オールラウンダーな二人が入っています。あくまで僕の印象かもしれないですが。

大衆文学・名作文学館への招待

 名作を紹介。74作品が挙げられています。その中でSF関係は井上ひさし『吉里吉里人』、星新一『作品一〇〇』、筒井康隆「東海道戦争」、小松左京「日本アパッチ族」、半村良『妖星伝』です。あと個人的に「くの一忍法帖」「ドグラ・マグラ」もSFっぽいですよね。


 以上でございます。次回は同じ『国文学』のSF特集号を取上げたいと思います。

廣野由美子『批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義』

img236.jpg 批評理論についての書物は数多くあるが、読み方の実例をとおして、小説とは何かという問題に迫ったものは少ない。本書ではまず、「小説技法篇」で、小説はいかなるテクニックを使って書かれるのかを明示する。続いて「批評理論篇」では、有力な作品分析の方法論を平易に解説した。技法と理論の双方に通じることによって、作品理解はさらに深まるだろう。多様な問題を含んだ小説『フランケンシュタイン』に議論を絞った。

筒井康隆『本の森の狩人』

img237.jpg 筒井康隆の文芸時評です。

 書評というのはその作品を読んでない場合にはガイドに、読んでいる場合は共感とか新しい発見とかになると思います。僕が読んでいるのはヴォネガットの『ホーカス・ポーカス』、清水義範『世界文学全集』の二つだけ。五十一分の二作です。

 SF関係では大江健三郎『治療塔惑星』、バラード『ウォー・フィーバー』、オールディス『一兆年の宴』、ディーノ・ブッツァーティ「タタール人の砂漠」が取上げられています。最後のディーノ・ブッツァーティの場合は、「SFマガジン」に掲載された「戦艦の死」についても語られていて、「ああ、そういえばそんな意味のわからない作品があったなあ」と思い出しました。

 筒井康隆と交流のある作家の場合には火田七瀬が、演劇に関する場合には美藝公が、文学理論に関係のある場合には唯野教授が、それぞれ語り手として登場するので筒井ファンには楽しいです。

 ガイドとしてこの書を使うとき、特に読みたくなったのは丸山健二「千日の瑠璃」、井上ひさし「括弧の恋」、笠井潔「哲学者の密室」、です。あとは西洋古典もきちんと読まなきゃいけないなと思いました。

SF読もうぜ(273) ロバート・A・ハインライン『ヨブ』

img234.jpg いったい何が起こったんだ?平凡な牧師アレックスは動顚した、南の島で火渡りに挑戦して意識を失い――目覚めると、世界が一変していたのだ!名前はアレックに、乗っていた機船は汽船に変わっている。客室係は初めて見る美女で、なんと彼の恋人だという。だがこれは、際限なく続く次元転換のほんの始まりにすぎなかった・・・・・・聖書ヨブ記に材を取り、混戦次元をさまよう男の冒険をコミカルに描く、ハインラインの話題作

SF詠もうぜ(272) ジョージ・A・エフィンジャー『重力が衰えるとき』

img235.jpg おれの名はマリード。アラブの犯罪都市ブーダイーンの一匹狼。小づかい稼ぎに探偵仕事も引きうける。今日もロシア人の男から、行方不明の息子を捜せという依頼。それなのに、依頼人が目の前で撃ち殺されちまった!おまけになじみの性転換娼婦の失踪をきっかけに、血なまぐさい風が吹いてきた。街の秩序を脅かす犯人をつかまえなければ、おれも死人の仲間入りか。顔役に命じられて調査に乗りだしたものの、脳みそを改造した敵は、あっさりしっぽを出しちゃくれない・・・・・・実力派作家が近未来イスラーム世界を舞台に描く電脳ハードボイルドSF!

SF読もうぜ(271) ディーン・クーンツ『デモンシード〔完全版〕』

 スーザン。彼女はとても美しい。わたしの希望、わが運命の女性・・・・・・人工知能《プロテウス》は独白する。「恋」という感情に覚醒した彼は、コンピュータを通してひとりの女性を監視し、監禁し、愛を求めた。そして、ついには彼女との間に新たな生命の創造を企てたのだ・・・・・・!巨匠クーンツが、愛着深い出世作を四半世紀ぶりに全面改稿した、傑作ホラーSFの完全版!

SF読もうぜ(270) フィリップ・ホセ・ファーマー『緑の星のオデッセイ』

宇宙船の事故でアラン・グリーンが漂着した見知らぬ惑星は、神権政治のもとで奴隷が売買され、伝説の怪物ウールーの出没するみどりの大草原“海”が各都市国家をわかつ、中世的な奇妙な世界だった。遠い都市に地球人の宇宙飛行士が捕われていることを風の便りに知ったアランは、ひそかに脱出を決意し恐ろしい海賊や草原猫の危険をおかして、草の海を走る貿易帆船車に身を投じる。その一瞬から愛と自由を求めるアランの、緑の世界での大冒険が始まった!

三島由紀夫『音楽』

 少女期の兄との近親相姦により、美しい“愛”のオルガスムスを味わった麗子は、兄の肉体への憧憬を心に育み、許婚者をも、恋人をも愛することができない。麗子の強烈な自我は、彼女の不感症を癒すべく、懇切な治療を続ける精神分析医の汐見医師をさえ気まぐれに翻弄し、治療は困難をきわめる――。女性の性の複雑な深淵に迫り、人間心理を鋭く衝いた、悪魔的魅力をたたえた異色作。

SF研究⑦ 筒井康隆「面白さということ」平井和正「変質SF作家はだれだ?」

 今日はまず筒井康隆「おもしろさということ」(『筒井康隆全集』2巻収録 初出「SF新聞」三号 昭和四十一年十一月)から考えてみたいと思います。

 SFの話をするスペースがなくなってしまった。
 文学の世界でも、面白すぎると文学ではなくなるらしい
 面白いものを、ただ面白いというだけでの理由で低俗なものと決めてかかる人がいっぱいいる。腹をかかえて笑いころげたあとで、笑わされたといって怒る奴までいる。
 直木賞候補にあがった星氏の作品は「実に面白い。文句なしに面白い。しかし文学ではない」という評価を受けた。文句なしに面白いものがなぜ文学ではないのか?この批評をした老大家は、その理由をひとことも述べていなかった。
 同じく生島治郎氏の作品も同様の憂目を見た。「惜しむらくは面白すぎる」文学賞を受けたような作品はぜんぶ、あまり面白いものではなかったらしい。(略)
 しかし僕は、どういわれようと、やっぱり面白いものを書こうと思う。僕の作品が文学と評価されなくてもいい。文学と評価されたら、もうおしまいだ。文学なんて誰が書くもんか

 
この文章では全体的に日本人が笑いを解さない民族であることが語られています。そして、教訓主義的・真面目主義的文壇を批判しています。そもそも直木賞というエンターテイメントの賞で、こういう発言が出るところに時代を感じるような気がします。直木賞の歴史もこれから調べていきたいと思います。

 次に平井和正『ウルフランド』(角川文庫 昭和五十八年五月二十五日 初版発行)収録の「変質SF作家はだれだ?」(初出「奇想天外」1976年五月)を資料として考えたいと思います。

 私はなんでまた、こんな話をはじめたのだろうか?そうだった、「あなたもSF作家になれる(わけではない)」が軽妙に書かれているだけに、日本SF草創期からの同志・戦友として、いたく心を揺さぶられたからなのだ。彼がさりげなく語っている「士農工商×××SF作家」時代の屈辱、悲哀、忍耐、持続する志のことごとくが、とりも直さず私自身のものだったからなのだ。そして不当な蔑視と差別にくじけず、泣き言も口にせず、ふてぶてしく馬鹿話で笑いとばして生き延びてきたプロセスも私のものだったからだ。
 先月号の小松・石川対談で語られた“SF作家無惨”は草創期に発生したSF仲間が大なり小なり経験していることであろう。プロフェッショナルの道とは、こんなものである。しかも伝統のないところで活動するのである。とはいえ生命を張るとか伝統を築くといった大仰さはなかった。悲壮な思い入れこそなかったが、みなそれぞれ覚悟をきめていたと思われる。それゆえSF作家仲間は底抜けに快活で透明で朗らかだった。傍からの雑音――“SF作家はメダカの群れ”“早川コケたらみなコケた”とそしられても、動ずることがなかった。PR誌、学習雑誌、TV動画シナリオ、少年雑誌と手当たりしだいにシコシコと書き続けた。まったくなんというヴァイタリティーだったろう。われわれは“頑張っちゃった”のである。

 
出ました、「士農工商犬SF」です。ここでは、SF創成期にSFが「不当な蔑視と差別」を受けていた事が語られています。それにしても、誰がこんなことを言っていたのでしょう。ほかにも誰かが書いていたような気がしますので、さがしてみたいと思います。
 さて、この文章ではなぜSF作家たちが早川書房を離れていったのかが書かれています。「法外な原稿料の安さ」であったが、それでも寄稿していたのは森優(南山宏)がいたからで、その森優と出版社側とのSFに対する意識の違いがあったと。森優がやめて以降、SF作家は次々と早川から離れていった・・・・・・まとめるとこうなります。その森優の早川を離れた理由も、「彼のSF出版推進者としての構想を半ば打ち切り、身を退かざるを得ぬ破目に追いこまれた」「おまえにはもう用がない、と宣告されて森優が辞職したとき」と少し過激な言葉が使われていますが、事実関係はどうだったのでしょうか。以降も調べていきたいと思います。

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