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SF素人が空想科学小説に耽溺するブログ。

モラトリアム

   

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SF研究⑥ 寺山修司『不思議図書館』より

 今回は少し毛色を変えて、寺山修司『不思議図書館』(角川文庫 昭和五十九年三月二十五日初版発行)を資料に考えたいと思います。「2◎ロボットと友だちになる本」より以下の文章を。

 ロボットといえば思い出すのは、フィリップ・ディックというアメリカのSF作家のことである。
 彼はいくつかのすぐれたロボット小説を書いているが、なかでも私の心に残っているのは「パーキー・パットの日」という短篇である。(略)
 科学が超人的能力の比喩というかたちをとるハリウッド映画のロボットたちに比べれば、SF文学の中のロボットは、しばしば絶望的な未来を象徴している
 そのことについて、ロバート・マローンは、
  「多くの現代作家たちにとって、機械人間は生きている人間の比喩である。
 そして、しばしば抹殺された人間のシンボルというかたちをとるのである」
 と書いてある。
 ディックの場合もそうであったが、文学の中のロボット像は、「人間の複製」または「再現」として描かれることが多く、それは(たとえ、どのように科学の粋をこらしても)、ヒューマニズムの未来を異化し、人間を「計る」ためのモデルとして登場することが多いようである。
 ロボットに女性が多いのも、現代人の「女性観」と無縁ではない。
 たとえば、星新一の「ボッコちゃん」では、ボッコちゃんが「うまくできて」「あらゆる美人の要素をとり入れ」「頭はからっぽに近い」女のロボットとして描かれる。

 
いかにも寺山修司らしい文章で写していて楽しくなってしまうのですが、ここではフィリップ・ディック星新一の二人の作品が提出されています。ここではロボットの作品に限定してはありますが「絶望的な未来」が多いと語られています。「ディックの場合もそうであったが、文学の中のロボット像は」という風にSFは文学の中に含まれています。寺山は進歩的(というより自由なという形容が似合うような気がしますが)な文化人であったし、マンガなどの他メディア作品も認めていたのでSFに関しても普通に文学作品だったのでしょう。
 七十年代以降の文化状況を象徴する偉人寺山修司。ハイカルチャーとカウンターカルチャー、二つの対立項を突き崩しているその偏見のない目がSFものからすると嬉しくなってくるのではないでしょうか。
 僕は体制への反抗というものに、SFや怪奇ものなども含まれていて、それを愛好することが若者の一つの自己表現であったのだと考えています。学生運動などもその一つではなかったかと推測しています。寺山の場合もそういう意識が少しはあったのではないかなあと思います。
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SF研究⑤ 福島正実「日記――十月×日」

 今回はSF界の怨嗟の声をお届けします。まずは戦う編集長福島正実氏の「日記――十月×日」(『S-Fマガジン』1963年12月号)より。

 東京新聞の〈大波小波〉で『SF界、奮起せよ』という記事を読む。どうせ穴埋め記事ではあろうが、こうした種類の知りもしない知ったかぶりの記事は、毎度のことながら腹が立つ
 まず気にいらないのは次の一文だ。
 『サイエンス・フィクションは、一時、推理小説の分野の三分の一ぐらいは奪うのではないかと思われたが、推理小説ブームのなかについに組みこまれず、いまだに片すみ的存在で、ディレッタントの仕事の趣がある』
 こんなことが書いてある。(略)
 『ディレッタント』としてでなく、プロとしてSFをやっているぼくらの願いは、猫も杓子もSFファンになったチンドン屋みたいな世界ではなく、SF的なものの考え方、SF的な話の楽しみ方が、特別あつかいされないような、洗練された世界の出現することにこそある。(略)
 腹が立つのはそのせいなのだ。悪口の一つもいわなければ、腹が癒えないのはそのせいなのだ、このブタめ!

 「大波小波」とは、東京新聞誌上で行われていた匿名批評。省略しましたが、ここでは「大波小波」への反論として①「SFは推理小説の分野の三分の一ぐらいを奪うのではないか」と思われたことはない②「推理小説ブームの中に組み込まれる」必然性もない③そんなこととは関係なしに、「ディレッタント」の領域をすでに突破した普及振りを示している と語っております。ここでは知ったかぶりするジャーナリズムのいい加減さに怒っておられます。「プロとして」とプロとアマをわける言動も福島正実らしいです。

 このブタ筆者は、また、某SF同人誌の六周年記念のために、三島由紀夫が写せた短文を、まったく無理解半可通に、次のように引用する
 『三島の注文は本来知的で自由なジャンルであるSFに、国籍不明な片仮名名前の人物が出て来てハードボイルドまがいの言行を示したり、逆に日本的な香りを出そうとして失敗する愚をついている』(略)
 もちろん、犀利な頭脳の持主である三島由紀夫が、しんからそう思うはずはない。彼にこういわしめたのは、不用意さだ。いかに卓抜な頭脳といえども、不用意であってはならないというお手本みたいな三島由紀夫の発言なのだ。
 「SFが、近代ヒューマニズムを克服する最初の文学かもしれない」という『卓見』は、主張としてだけならばなにも彼だけのものではない。というよりも、こんなお先っ走りのブタ君に引用されるのは、彼の本意ではあるまい。

 
省略しましたが、ここで福島は日本のSF作家が片仮名名を使うのは、未来世界が国家の群落であることをやめ「無国籍」になるからこそそうするのだと「三島の不用意さ」を責めています。その上で「SFが近代ヒューマニズを~」という三島の主張は別に彼特有のものでなく、誰でも言ってんだ、わかりきったことなのだ、ということを述べています。そして、ここでも「大波小波」の不勉強(というより知ったかぶり)を怒っています

 
ブタ君は結びにいう。
 『SF界はフェスティバルで元気を出すばかりでなく、ここらで脱皮し、奮起せねばならぬ』
 よせやい。ああ、よせやい。他人事ながらこっちが恥かしくなる。フェスティバルで元気を出しているいるのは、お祭好きの無邪気な人たちだけなんだよ。本物のSFは、そんなところでではなく、もっと地についた諸々の文学現象の中に、着々と沈潜しつつあるんだよ。(下線部、着色は引用者)

 
ここでもハッキリとプロとアマの存在をハッキリわけようとしています。これではファンジンなどのアマ側と仲が悪くなるのもしょうがないなあと思ってしまいます。そして、福島正実にははっきりと文学志向の考え方が見えると思います。

 まあ、確かに「大波小波」の不勉強さはハッキリと表れています。しかし、SFは推理小説ジャンルの一つという考え方は根強かったわけですから、一般の考え方を踏襲していたともいえます。最後の一言は悪意があるのかないのか判断はできませんが、本当に余計な一言ですね。
 さあ、そしてヒステリックといえるほどの反応を示す福島編集長。「このブタめ!」とこの一ページしかない文章の中で五回も「ブタ」という呼称を使用しています。そんなに我慢ならなかったんでしょうかねえ。
 なんにせよ引用文というものについて考えなければなりませんね。自分の主張したいがための恣意的な引用にならぬよう僕も気をつけます。三島の手紙については全集からさがしてきたいと思います。

SF研究④ 早川書房編『SFハンドブック』

 今日はまず早川書房編『SFハンドブック』より、「年代別SF史」。世界の(基本的にアメリカ中心ですが、日本も交えてたり焦点がよくわからない部分があります)SFの動き(主に小説)を年代別に記しています。これはもちろん「SF界の言説」です。
 最初に「一九六〇年代」。

 こういったことからいえるのは、外の世界がSFと相互作用を始めた時代だということである。“核による人類滅亡への警告”“科学技術の発達と未来の人類、そして文明のあり方”こういったものが〈宇宙時代の文学〉〈文明批評の文学〉としてのSFに求められるようになったのである。また正統的、伝統的な文学に対するカウンターカルチャー、サブカルチャーとしてのSFのあり方にも、むしろ好意的な目が向けられるようになった。もちろん、宇宙に夢中の子供たちにとっては、SFがすべてだった。SFが世界のすべてを包含する必要があった。なぜなら、“明日はSF”なのだから。

 
実際に人類が月面に立ち、核戦争の脅威を受けたこの時代、SFは社会と連動して動いていたことがわかります。そこでSFはジャンル内だけに止まらず、社会に注目されることになったことが書かれています。同時にハイ・カルチャーに対してのカウンターカルチャー、サブカルチャーとして、ロックやヒッピー・ムーヴメントと連動していたことが語られています。ハインラインの『異星の客』のベストセラー、カート・ヴォネガットの再発見、おそらくそのヴォネガットの影響を受けたであろう村上春樹の『風の歌を聴け』でのSFという小道具・・・・・・等を考えるとそれが確認できます。
 次に「一九七〇年代」です。

 というのも、七〇年代には出版会のペーパーバック革命が進むにつれて、ジャンル小説の躍進が目だつようになり、ロマンスとならんでSFがベストセラーの常連となりはじめたという事情があります。(略)SFはブームといわれ、とくに映画「スター・ウォーズ」や「未知との遭遇」などのヒットがそれに拍車をかけました。(略)またアカデミズムからもSFは注目されるようになって、評論誌や研究者の団体が生まれ、学校での教材にもSFがとりあげられてゆきます。スタニスワフ・レムやA&B・ストルガツキーといった共産圏の作家の翻訳も進み、国際的なSF交流もさかんにおこなわれてゆきました。この時期、SFは文学としても、産業としても、幅ひろく社会に認知されていったのです。

 
いわゆる「浸透と拡散の時代」(確か筒井康隆の言葉)がやってきた時期です。「ジャンル小説の躍進」と共にブームが生まれ、映画などのメディアが拍車をかけ、SFは社会に認知された。そして、アカデミズムの世界にも研究者が生まれた。商業としての成功と文学としての認知に成功したということです。
 最後に「一九八〇年代」です。

 以上、SF界内部の動きだけを追ってきたが、文学サイドでもSFの題材を使ったり、SF顔負けの奇想に満ちた作品が増えているのも見落とせない

 実はこの言説に僕は特に注目したいんですが、これにはそれなりにSF界のジレンマが見えるような気がします(もちろん事実ではあるでしょうけれども)。これは仮説ですが、SF専門誌などが減っていく中で、その原因さがしというのが行われていて、それがSFテーマや読者が文学サイドに流れてしまったせいじゃないかということが一つ、そして「フランケンシュタインはSFだ」のような文学と関連づけて地位向上をはかるという目的もそこには仄見えるような気がしますがどうでしょう?この言説がジャンル内だけのものなのか、それとも文学側から同じようなものがでてくるのか、調査してみたいと思います。

 最後に二つほど。まず深見弾「変貌するソ連・東欧SF」より。

 五〇年代に入ると、古生物学者であった、I・エフレーモフの活躍により、ソ連SFは確固たる地位を築き(『アンドロメダ星雲』〔五八〕)、ソ連SFも世界から注目されるようになる。それと同時に、この時代は彼の影響を受けて、才能ある作家が育ったときでもあり、中には、ストルガツキー兄弟のように、ようやく科学啓蒙読物から脱皮しつつあったSFを、〈文学〉として追求する作家たちも現れた

 
最後に同じく深見弾「ブラッドベリがわたしをソ連東欧SFの翻訳者にした」です。

 大学を露文科にしたのは、戦後しばらくの間、盛んに紹介されていたソビエトの革命文学に惹かれたからだ。だが、SFという刺激的な新しい文学に出会うと、たちまち革命文学にたいする熱がさめ、代ってぜひともソ連のSFを読んでみたくなった。

 
今後扱っていきたいのですが、深見さんも含めてSF第一世代の人々にとってSFとは新しい文学であり、文学的衝撃を受けてSFにのめりこんでいったわけです。そういう意味でSFが身近にあった後の世代とは考え方の違いがあると思います。この書を全体的に見ると、文学という考え方にはっきりいって固執していません。それだけSFが認知されたことを示すとともに、政治的発言を繰り返さなければならなかったSF第一世代というのは本当に大変だったのだなあと思います。

 以上で第四回目を終ります。

SF研究③

 今回は北杜夫氏の『マンボウ交友録』(新潮文庫 昭和六十一年一月十五日)より。実際の連載時期は昭和五十六年(「まえがき」より)。
 一つ目は「奥野健男氏」の章です。

 一つ目はやがて私の『マンボウ航海記』を世に出してくれた宮脇俊三氏をまじえた交際であり、もう一つはしばらくあとのことで三島由紀夫氏がSFも好きで、そういう文学の話にもあう私たち二人をときどき招いてくださったからである。三島さんは文壇人の出没するようなバーが嫌いで、新橋などの三流キャバレーなどへも行ったりした。

 前々回に提出した資料の中で三島由紀夫『美しい星』の「解説」でも奥野健男がSFの話をしていたという文がありましたが、その席には北杜夫しもいたのかもしれません。文壇の一部にはこういったSF好きの人もいたようです。この中で北杜夫は「そういう文学」という風に、文学の中にSFを含めています。これは北杜夫がSFを愛好しており、自ら数作書いていることもあるでしょう。ただ北自身は純文学を一段上に置いている発言等もしばしば見られるので、エンターテイメント文学であるSFは比較的低い位置に置かれているのではないかと僕は思います。
 二つ目は「星新一氏」の章。引用が少しおかしな文章から始まりますがご愛嬌。

「酒乱になるのにも前戯が要る」
「前戯?一体どんなことをなさるので?」
「いろいろある。いちばんいいのは、やはり芥川賞、直木賞の話をすることでしょうな
 なるほど、今でこそSFは若者に好まれるが、それを理解する、殊に年配の文学者は滅多にいない。しかし、すでにSFには立派に市民権を獲得している一流文学作品も一杯ある。そういう点も、彼はおもしろからず思っているのではなかろうか。


 ここでは星新一の発言から、SFが若者に好まれ、年配の文学者は理解しないという点、市民権を獲得している作品があるという点を挙げています(逆にいえばそうじゃない作品も多いということなのかも)。星新一の発言から、SFの話に繋がることを考えると北自身SFは正当な評価を得ていないという印象をもっていたと推測できます。実際に芥川賞、直木賞においてSFは、SF側から見ると、あまりいい目を見ているとはいえません。候補にはなるが、落選するということを繰り返しているからです。
 ところで、この文章でも星新一伝説の一端が垣間見えますので、お好きな方にはオススメ。

 ちなみに『どくとるマンボウ航海記』(新潮社 昭和35年3月20日)には以下のような文章があります。

 なにしろ私はもう何年も医局にいるくせに論文一つ書こうとはしないのである。医局にいると大抵心理とか病理とかの研究室に配属され、いやでも共同研究か何か押しつけられてしまうものだが、私はそんなものを命じられぬよう、小部屋の一隅に『宇宙精神医学研究室』なる看板をかかげ、自らその主任と称し、そこに隠れて空とぶ円盤の書物なんぞばかり読んでいたのである。

 
「円盤の書物なんぞ」と書かれているところが注目すべきで、北がそれをどう思って読んでいようと、前文の論文や共同研究というものと対置されていることを考えると世間では低俗なものと見られていることを示しているように思われる(そうでないと笑いが成立しない)。もちろん現在においてもUFO話は怪しげなイメージだと思いますが。やっぱり町村外相のUFO発言はスポーツ新聞で大きく取上げられても、一般紙にはそうじゃないものなあ。

 というわけで、今回は北杜夫氏のSF観でした。これに関してはもう少し資料を集めて補強していきたいと思います。

SF読もうぜ(269) リチャード・マシスン『アイ・アム・レジェンド』

img233.jpg 夜が来る。ネヴィルは一人、キッチンで夕食の用意をする。冷凍肉をグリルに入れ、豆を煮る。料理を皿に盛っているとき、いつものように奴らの声が聞こえてきた。「出てこい、ネヴィル!」・・・・・・突如蔓延した疫病で人類が絶滅し、地球はその様相を一変した。ただ一人生き残ったネヴィルは、自宅に籠城し、絶望的な戦いの日々を送っていた。そんなある日・・・・・・戦慄の世界を描く名作ホラー、最新訳で登場!(『地球最後の男』改題)

SF研究②

 今回はSF界内部では、純文学に対してどのような意識を抱いていたのか、考えてみたいと思います。

 まず資料として使うのは、安部公房『人間そっくり』(昭和五十一年四月三十日発行)の福島正実「解説」における文章です。福島正実氏は初代「SFマガジン」編集長。日本のSFの開拓者といわれるお方です。

 「わが国で、最初のSF専門誌である「SFマガジン」が創刊されたのは、それよりさらに数年前――昭和三十四年末のことであった。その当時、SFは、まだごく限られた読者しか持たない、奇矯な娯楽読物としか思われていなかった。海外――とくにアメリカ、イギリスでの、SFの急激な成長は、わが国にも反映して、それらの作品の翻訳出版はようやく盛んになりつつあったが、それでも、SFの持つ文学としての可能性を認めるものはごく少数で、SF出版は偏見と誤解の中で苦渋に満ちた時期を送っていた。その頃から、安部さんは、「SFマガジン」と、その編集をしていた私の数少ない理解者であり、協力者であった。」

 「さらに、回避しなければならない幾つもの危険があった。その最たるものは、SFがサイエンティフィックフィクションつまり科学知識によって書かれる小説だという、すでにかなり社会に流布してしまった印象が、そのまま定着することであった。小説の読者は、伝統的に、科学や技術に弱い。小説中にしち面倒な記号や数式や科学・技術用語があると、とたんに尻ごみし後ずさりして、読まないうちからその小説を敬遠してしまう傾向がある。」(下線は引用者)

 という風に偏見と誤解の内容を述べておられます。福島正実は文学志向の強い編集者・作家であり、この文章の中にもそれが現れています。

 「エンターテイメントとしての完成を主要な目標とすること――エンターテイメントとして自己充足してしまうことは、より重要な可能性を自ら切り棄ててしまうことにほかならなかった。それでは、SFという形式によって、それ以外の形式では表現できないなにものかを表現しようとした、われわれの最初の目的が失われてしまう。」

 大衆に広めていく事と、文学としてのSFの可能性という「アンヴビヴァレンツ」。ここでは文学のうちにSFを認知させようとしている強い意図を感じます。その点で安部公房という作家はSF史を研究する上では非常に重要な作家といえるでしょう。福島正実は「安部さんは、SFが現代小説の新しいジャンルになるだろうことに、私以上に確信と期待を持っているように見えた。」と書いています。


 時代がひどく跳びますが(いつかは時代順にまとめたいと考えています)、次に岬兄悟・大原まり子編『SFバカ本 たいやき篇プラス』(廣済堂文庫 平成11年5月1日 初版)における「巻末付録 小松左京特別インタビュー」(聞き手:大原まり子/岬兄悟/星敬/日下三蔵)を使いたいと思います。

 「小松 こないだ、『関西文学』って同人誌が潰れかけたんだ。財源破綻で。なんとか立て直して、ぼくも新しく入会金払って、同人費払って会員になった。そうしたら何かしゃべってくれっていうんで、そのときに言ったんだが、小説は文学の本道だと「純文学派」はいうけれども、「マンガ文学」って言わないだろうか、「アニメーション(文学)」とは言わないだろうか。場合によっては「ゲーム(文学)」とは言わないだろうか。
 近代小説の形式ができる前に、純文学こそ小説だと言う前に、そういうさまざまな形式の文芸というものを通じていろんなことを近世の芸術家と庶民はしてきたと。


 資料として適格ではないかもしれませんが、純文学に対しての対抗意識のようなものが仄見えますし、ここでは文学というのはあらゆる可能性を含むもので、メディアが違っていたとしてもその貴賎はないんじゃないか、ということが語られていると思います(この直前には漫才台本を書いていた頃の話がされています)。そういう点ではSFというジャンルはメディア形態が多様だったからでしょう。ここでは純文学の狭縊さを批判しているように思います。

 以上手近にあった資料二つから、お送りいたしました。

SF研究①

 突然ですが、文学史にいかにSFは組み込まれているのでしょうか?

 「文学の多様化 昭和に入ると、大衆文学が一つのジャンルのように扱われ、純文学と並行していたが、戦後、その隔たりがあいまいになり、中間小説という言葉がつくられ、それにみあう作品が大量に書かれるようになった。推理小説がブームになり、空想科学小説はSFとして独立する。文学の商品化が進み、多様化する社会の多様なニーズに応え、企業小説、旅行小説、グルメ小説など多彩な作品が氾濫している。」

 これは高校生の教材として使われる『日本文学史』(東京書籍 一九九七年二月一日 初版発行)の記述です。読み取りにくいのですが、推理小説の中のサブジャンルの一つであった「空想科学小説」がSFというくくりでジャンルとして成立したという意味でしょうか。

 昔から疑問だったのは、筒井康隆「日本古代SF考」などに代表される(といっても、これは小説ですが)ように、SFはそんなに文学界で差別を受けていたのだろうか、ということです。というわけで、試みに高校の時の教科書を開いてみました。
 そこで、「SFは差別されていたか?」ということを読み解くために、いろいろなテクストを集めてそれを分析することでテーマに迫っていきたいと思います。具体的には「純文学の側からのSFに対する言説」、「SFの側からの純文学に対する言説」を読み解くことで、両者のイデオロギーを見出すという作業になります。

 その手始めに、部屋にあった二冊の本の解説から。

 SF的な科学的発想を持っていること、文体から湿り気が抜けていることは、そのせいである。」
 「どちらも一種のSF的未来物語と見ることが可能な側面を持っている。」
 「第三の発想原則、現在には未来をという方式が、このように、安倍公房においては未来ものSFによく見られるオプチミズムとは無縁のものであることは、見逃すことができない。」(太字は引用者)

 安部公房
『R62号の発明・鉛の卵』(新潮文庫 昭和四十九年八月二十五日発行)での渡辺広士「解説」からの文章です。渡辺広士氏は文芸評論家。
 ここではSF「的」と使うことで、安倍公房作品をSFと切り離しているように感じられ、未来SFのオプチミズムと安部公房の作品を比較して、より安部公房の価値を出そうとしているように感じられます(オプチミズムと無関係の未来SFはたくさんあると思う)。文章からはちょっとした偏見めいたものが感じられるような気がします。

 次に提出するのは三島由紀夫『美しい星』(新潮文庫 昭和四十二年十月三十日発行)における奥野健男の「解説」。

 「実際、この小説が『新潮』に連載されはじめた時、ぼくはいささか困惑を感じたものだ。いよいよやりはじめたかという胸のおどるような期待とともに、こんなことをはじめて大丈夫なのか、いったいどう収拾つける気なのだろうという不安とをおぼえたのだ。他人事ながら失敗しないでくれ、とはらはらして見ていられないような、恥ずかしいような気持さえ抱いたのである。というのは、いささかうちわ話めくが、ぼくは作者が、超現実な怪奇譚やSFや、特に空飛ぶ円盤の話に興味があるのを知っていた。ぼくもそういうことには人一倍関心がある方なので、作者と会うたびに話題はSFや円盤のことになった。ところが、この作品を書く一年ぐらい前から、作者は北村小松氏などに影響されたのか、空飛ぶ円盤について、異常なほどの興味を示し、円盤観測の会合にも参加したりしていた。(略)さてぼくが『美しい星』を読んで大丈夫なのかと心配したのは、純文学の世界に、宇宙人とか、空飛ぶ円盤とか、いわばいかがわしいものを持ち込んだことについてである。」(太字は引用者)

 引用が長すぎる嫌いがあるので省略したが、この後「SF作品としてのリアリティーを持っているかと言うと、それも欠けているのだ。」という主張があり、「これはSFではないと明らかにするため、こういう設定をした」「SF的な制約や雰囲気からも、独立し自由であろうとしたのだ。」という語が続く。僕もそれには賛成である。しかし、この部分には前に提出したもののようにSFから特別切り離そうとする意図は見られない(と思います)。
 上の文から伝わってくると思いますが、奥野健男はSFに好意的な評論家です。筆者自身、そして三島は怪奇譚やSFが好きではあったということが一点挙げられます。SFに好意的な人物が『SFマガジン』創刊前に純文学界にもいたようです。ちなみに北杜夫は奥野健男と三島由紀夫とSF好きという理由から一緒に飲んだというエピソードもあります。
 しかし、よし好意的な人物がいたとしても、それは「いかがわしいもの」というイメージを抱かれていた、ということがわかります。当時の文壇の一般状況としてそういったテーマが文学的でなかったことがわかります。

 と、いうようにいろいろと文献を集めて調査していきたいと思います。

SF読もうぜ(268) 日下三蔵『日本SF全集・総解説』

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 43作家の長篇・連作71作、短篇641作を厳選 架空のSF全集の体裁で贈る画期的ブックガイド!

W・アレンズ『人喰いの神話―人類学とカニバリズム―』

 カニバリズム――人類学の中でも特にセンセーショナルなこの項目は、人類学者にも注目されており、しばしばフィールドワークの中でも言及されている。しかし、著者はすでに定着しているこの項目に疑念を突きつける。食人に関する直接的な証拠と見られるものは資料には存在しない――。

 著者W・アレンズは「慣習としての食人が存在したことは、ないのではないか」という大胆な説(もちろんある程度の条件付きではるけれど)を打ち出し、それをこれまで食人の証拠とされてきたものを例示して、その疑わしい部分を指摘してみせる。修道士などの手紙からはキリスト教的世界観からの異教徒への偏見の点、アステカの食人習慣では植民地化・殺戮の正当化という点、またフィールド・ワークで提出された証拠では儀式での象徴の見間違い・他部族を評する原住民の言やガイドの言葉などの又聞きであり直接的に人類学者が見たのでない等の点を挙げ、食人の証拠を鮮やかに否定していく。そのダイナミズムに読むものはひき込まれていく。商業的にも成功した本だと解説で書かれていますが、それも納得。学術書ではあるけれど、非常に面白いのです。

 常識を揺さぶられることに楽しみを覚える僕は、偏見を剥がされるのが好きです。知らず知らずに身に染み込んでいる考え方を解体し再構成していく。この本は欧州の別世界に対する意識が食人という「神話」を生み出したのだ、と説いています。
 アフリカの部族は周辺の別の部族を本当はそうでないのに「食人」部族だと考えています。それを人類学者が疑ってもみず信じ込んで、又聞きのそれを食人部族がいる、という風にしてしまってる。しかし、その部族たちの「神話」は皮肉にもヨーロッパ、西洋文明という大きな集団の中でそっくり再現されていて、アフリカの部族やインディオたちを食人者たちに仕立て上げたのだ、というのが、著者の主張です。そして、その類似例として中世の魔女狩りが提出されるのですが、すごい説得力です。

 食人を信じきっている探検家たちの言葉には少し笑ってしまいます。たとえば、「またある種族に攻撃されたとき、彼らは、スタンリーとその探検隊を食ってやるぞ、と知らないことばで叫んでいた。知らない言葉で言ってるのに、お前らどうしてわかったんだ!という風に突っ込みを入れながら楽しむこともできます。

 これまでの定説を大きく覆してしまう強烈なインパクトを持った説なので、アレンズが教授に推薦されたとき、ほかの人類学者に邪魔されたりして大変な目にあったようですが、この説は今どの程度支持されているのかが気になります。人類学事典でカニバリズムの項を見たときに、この訳書が出たのと同時期のもので、「最近はアレンズのようにそれは存在しなかったという説も出ている」という風にあったのですが、今はどうなのでしょうか。とにかく非常に面白い本でした。

SF読もうぜ(267) スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』

 すみれ色の靄におおわれ、ものうげにたゆたう惑星ソラリスの海。だが、一見何の変哲もなく見える海も、その内部では、一種の数学的会話が交わされ、自らの複雑な軌道を自己修正する能力さえ持つ、驚くべき高等生命だった!しかしその知性は、人類のそれとはあまりにも異質であった。いかなる理論をも、いかなる仮説をも受けいれず、常にその形を変え、人類を嘲笑するかのようにつぎつぎと新たなる謎を提出する怪物――生きている〈海〉。人類と思考する〈海〉との奇妙な交渉を通して、人間の認識の限界を探り、大宇宙における超知性の問題に肉薄する傑作!

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